「モラルの問題」という言い方がありますよね。

たとえば、法律の穴を利用して利益を得た人に対して、「法的には問題がないのかもしれないが、モラルの問題だ」などと批判が飛びます。そう言いたくなる気持ちも理解できるんですけどね。

でも、僕は、そういう批判はくだらないと思っています。

というのも、問題を「モラルの問題」にしてしまうと、「解決」は遠のいてしまうと思っているからです。どういうことなのか。以下、屁理屈。

モラルは個人のもの

モラルというのは、所詮、その人個人の価値観に過ぎません。

法律のように明文化できないのは、個人の価値観でしかないからです。自分のモラルと他人のモラル、重なることはあっても、一致することはありません。

モラルが個人のものなら、「モラルの問題」は個人の問題ということになります。

モグラ叩き

実際、「モラルの問題」が問題になるとき、その個人が叩かれますよね。

「モラルの問題」としてしまった以上、その個人の問題なので、叩くとしたらその個人を叩くしかないんです。擁護者がいた場合、その擁護者も「同罪」なので、一緒に叩かれます。

僕はよく、こういう叩き方を「モグラ叩き」に喩えます。

モグラを叩いて引っ込ませたとしても、それは、そのモグラにしか効果がありません。別のモグラがまた出てきます。そうしたら、またそのモグラを叩くと、その繰り返しになります。

何を「解決」と捉えるかにもよりますが、僕はこれを「解決」とは考えません。

問題なのは、「そのモグラ」ではないんですよ。問題は、「モグラ全般」であり、「モグラが穴から顔を出すこと」です。「モラルの問題」とすることは、問題設定の誤りです。

モラル向上

また、「モラルの問題」は、「モラルの向上」につながりやすいんです。

別に、モラルの向上それ自体が悪いと言っているのではありません。モラルを向上しなければならないという動きが出てくることが好ましくないと言っているのです。

だって、行きつく先は、道徳教育ですから。

はっきり言って、道徳教育はそれほど効果はありません。かつての道徳教育を見れば分かります。もっとも熱心に道徳教育を受けた世代は、道徳教育を受けていない世代と比べて、犯罪率が高いじゃないですか。効果があるとは思えません。

モラルは個人の価値観です。そのモラルの向上は、その個人の個人的な営みによってしかなせないのです。「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」という至言の通り、水を飲むかどうかは個人の問題です。

なんでそれを「飲ませられる」と思える人がいるのか、不思議でなりません。一種の全能感を持ってしまうんですかね。自身の醜い心を写す鏡でもあればいいのに。

では、モラルの向上は望めないのかと言えば、そんなことはありません。

モラルの向上は個人的な営みですが、現実問題として、この世には別の個人が無数にいるわけです。冒頭でも触れた通り、それぞれのモラルは、重なるところはあっても一致はしません。

なので、自分のモラルが他人には通用しない場面に必ず出くわします。

そのとき、自分のモラルを修正した方が得だと思えば、そうしますよね。ほら、その個人の営みでモラルが向上したじゃないですか。これでいいんです。みんな普通にやってることです。

まとめ

そんなわけで、「モラルの問題」にすることにはメリットはないという話でした。

問題を個人の問題に帰してしまうと、出てくるモグラを叩くだけの状況に陥ります。これでは、解決したように見えているだけで、本当の「解決」には至りません。

では、本当の「解決」に至るにはどうしたらいいのでしょうか。

個人の問題に帰するなと言っているわけですから、個人ではないところの問題として捉え直すしかありません。問題設定の話。その方が、建設的かつ普遍的、適用範囲が広がります。

本来なら、もっと具体的に書きたいところですが、これまでもさんざん書いてきたことの繰り返しになるので、過去の記事を参照してください。

一つだけ例を挙げると、いじめ対策。

僕は、いじめる側を批判しないんですよ。個人の問題にしたくない。それよりも、いじめの構造を正せばいいという考え方です。その方が救える範囲が広がり、メリットが大きいからです。