教育勅語は、教材として使えるかどうかという話。

政府は31日、戦前・戦中の教育勅語を学校教育で使うことについて、「勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切である」としたうえで、「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」との答弁書を閣議決定した。(朝日新聞 2017年3月31日)

これに対し、ネット上では「戦前回帰」や「軍国主義化」だといった批判の声が上がっています。朝日新聞教育班は「すごいことになりました」とツイートしました。

まぁ、ある意味、「すごいことにな」ったと思いますね。以下、屁理屈。

教材の自由

まず、教材というのは、授業や学習に使う材料のことです。

その代表格は教科書ですが、「森羅万象すべて教訓」と言われるように、この世に存在するものすべて(抽象概念や感情も含む)が教材となり得ます。教材にならないものなどありません。

そして、教材として何を使うかは、授業者(学習者)の自由です。

憲法で学問の自由が保障されている以上、その材料となる教材として何を使うかも自由です。なので、教育勅語を「教材として用いることまでは否定されることではない」は当然です。

もっとも、実際に教材として活かせるかどうかは、別ですよ。

授業者(学習者)によって、教材として活かせないということはあります。でも、その人が活かせなかったとしても、他の人も活かせないとは限りません。教材として使えることと、教材としてうまく活かせるかは別の話です。いわゆる「料理の仕方次第」です。

教科書検定不合格

こんなことを書いていると、教科書検定を持ち出した反論が来るかもしれませんね。

たとえば、「日本には教科書検定というものがある。教科書検定で不合格となったものは、教科書として使えないから、教材にならないじゃないか。はい論破」みたいな感じで。

実際、こういうアホなことを言っている人をツイッターで見かけたんですよ。

でも、申し訳ないですが、教科書検定で不合格となったものでも教材としては使えます。教科書検定は、教科書として使えるかどうかの話で、教材として使えるかどうかの話ではありません。

内容なんてどうでもいい

余談ですが、僕は、教材の内容については無関心です。

日本の国語教育は、文学教育に偏っていると言われますよね。教科書に載っている作品も、いわゆる「内容のいい作品」と言われるものがほとんどです。

僕は、そういう傾向に否定的な立場です。

国語教育は、言語処理能力の育成が第一であって、そのための教材は、「内容のいい作品」である必要はありません。むしろ、内容に引っ張られるあまり、言語に対する観察眼が鈍り、言語を感覚で捉えやすくなるというデメリットの方が大きいと思います。

なので、僕は、教材の内容に関しては、どうでもいい派です。大事なのは、その教材が合理的に能力向上に役立つかどうかだと思っています。

まとめ

何を教材として用いるかは、強制されるべきでも、禁止されるべきでもないのです。

ただし、政府の言う通り、「教育の唯一の根本とする」ことは許されません。「教育の唯一の根本とする」とは、宗教の経典のように扱うこと。そりゃあダメですよね。

今回、変にこじれているのは、教材という用語の捉え方に差があるからです。批判側は、教材を、宗教の経典のような限定的な意味で捉えています。いくら教育の素人だと言っても、この捉え方には無理があります。もうちょっとお勉強された方がいい。

まぁ、僕だったら、教育勅語は教材として使わないと思いますけどね。

たとえば、軍国主義の資料としては使えそうですが、読みにくいものなので、時間を割いて読ませるのもバカバカしいですし。かと言って、古文書を読むための練習教材にするには、使われている単語に汎用性がないので、あまり意味がない。

結局は、「料理の仕方次第」です。

僕は料理下手ですけど、料理上手な人なら、面白い使い方をするかもしれません。どう使うか、ちょっと興味がありますね。後学のためにそんな授業を見てみたいものです。