学校教員は忙し過ぎるとよく言われます。

とは言え、学校種別や地域によって、だいぶ偏りがあるようです。知り合いの教員には、ほぼ定時に帰っている人もいれば、深夜まで仕事に追われている人もいます。

ただ、割りと深刻な問題ですので、僕なりの屁理屈を少し。

教育関係者の全能感

この問題の原因は、二つあると思っています。

一つは、過去百年にわたって築き上げられてきた、学校教育の思い上がりです。本来なら担うべきではないことまで担うようになっていった、役割分担の失敗事例と言えます。

教育の世界は、教員が全能感を持ちやすいんですよ。

相手は子供ですし、立場が立場です。自分より未熟な子供に囲まれていると「自分は何でもできる」という錯覚を持ちやすく、教員と児童生徒という上下関係がその錯覚を強化することになります。そういう錯覚からの思い上がりが、学校教育を支配している。

日本人的な問題解決

もう一つは、日本人的な問題解決の方法です。

日本人は、なぜか、問題解決を属人的に済ませてしまおうと考えがちです。仕組みを改善するのではなく、誰かががんばることで問題を乗り越えようとする。

一昨年ぐらいに話題になった牛丼屋のワンオペも同じですよね。

本来的には、経営の失敗なんですよ。それを、仕組みを改善することをせず、現場のがんばりでカバーしようとしていた。経営の失敗の上に、問題解決の失敗も重ねたわけです。

スーパーマンにはなれない

教育の話に戻すと、たまに、ものすごく立派な教員が注目されることがあります。

しがない人間の性なのか、我々は、そういう教員をお手本にしたり、基準にしたりしてしまいがちです。でも、これは絶対にしてはいけないことなのです。

なぜなら、彼はスーパーマンだから。

普通の人がスーパーマンを真似たら、無理が出るのが道理です。スーパーマンが空を飛んでいるからと言って、高層ビルの屋上から飛び立てば死ぬのが道理です。

こんな当たり前のことなのに、これが分からない人が多いんですね。

ワンオペを難なくこなせる人もいれば、そうでない人もいるんです。ものすごく立派な教員もいる一方で、そうではない平凡な教員もいるんです。

基準は平凡な人

問題解決の基本は、仕組みで解決するということです。

誰かのがんばりでカバーするという属人的な解決方法は、スーパーマンが現れればうまく行きますが、それに期待するのはまともじゃありません。

誰がやってもうまくいく、そういう仕組みが必要なんです。

だから、その基準は、世の中のほとんどを占める、平凡な人です。平凡な人がうまくやっていけるような仕組みを構築する。さらに、仕組みを改善することが、組織を改善することにつながるという仕組みにしておく。

教育の場合、仕組みを構築するのは文科省や教委の仕事。

彼らをなまけさせ過ぎているんですよ。彼らがそういう仕組みを作らないから、現場や子供にしわ寄せが行って、教育問題としてあらわれる。いつも言っていることですが、教育問題のほとんどは、1960年代から議論されていることです。いくらなんでもなまけ過ぎ。

上の人間をこきつかえ

もっと上の人間をこきつかえばいいんですよ。

上の人間を死ぬほどこきつかう。結果、死んでもいいんです。上の人間というのは、死んでも名前の力でまだ働けます。だから、死んでもこきつかうことが可能。

ひどいことを言っているようですが、これが平等・公平というものです。

平等・公平は、必ずしも「同じであること」を意味しません。「同じであること」を意味するのは、みんなが同じ立場である場合のみです。

人間関係に上下があるのなら、その時点で、前提として同じではありません。だから、それぞれに課される役割も同じではありません。余裕がある方により重い負担を課すことで、平等・公平になるようにするわけです。

もし、上の人間がこれを嫌うなら、上下の差を小さくすればいいだけの話。

まとめ

そんなわけで、教員の業務過多についてでした。

学校教育は、世界中で実施されていますが、海外では教員の業務過多がここまで深刻にはなっていません。全教員が定時に帰れている国も多くあります。

この差は何かと言えば、僕は、いま書いたことにあると思うんですよね。

これらの問題を早く解決しないと、学校教育自体があやういと思っています。僕と同世代の教育学者の中には、学校教育不要論的な考えの人が多いと感じるようになりました。現に、「学校ではない学校」の設立に動いている教育学者もいます。

まぁ、かく言う僕も学校教育不要論的な考えなので、あやうくてもいいのですが。