青年が見た夜

マウスを滑らせる。配信停止のボタンをクリックすると、コメント欄が動きを止めた。配信ソフトを閉じ、オーディオインターフェースのスイッチを切る。パチッという音が部屋に響いた。

接続数とスパチャの確認は明日でいい。PCの電源を落とした。大きく息をついてから、頭の後ろで手を組むと、ゲーミングチェアの限界までリクライニングさせた。軋む音が響く。

ぼんやりと、シーリングライトに入り込んだ虫の死骸を眺めた。一匹、動いているやつがいる。外に出てこないかなとしばらく見ていたが、出てこなかった。

カップ麺に粉末スープを入れて、鍋を見た。まだ気泡も見えない。

トイレに行って戻ってくると、姉が起きてきた。

「終わったの?」

「うん」

「どうせ誰も見てないんでしょ?」

「見てるよ」

「学校も行かないくせに」

「関係ないだろ」

火を止めて、カップ麺に湯を注ぐ。スリッパの音が遠ざかっていくのを背中越しに聞いた。

スマホを手に取り、SNSを開く。タイムラインをざっと流した。気になったのは自分の伸びた爪ぐらいだ。スリープさせた。

すすったカップ麺は、まだ堅かった。

自室に戻り、ベッドで仰向けになった。

スマホでSNSを開き、またすぐに閉じた。手を滑らせて、スマホが顔に直撃した。画面に顔の脂がついたのを見ているうちに、涙が出た。シーリングライトにはまだ動くやつがいる。

ズボンをデニムに履き替えて外に出ると、救急車のサイレンが聞こえた。赤色灯の光を探すも見当たらない。

静かになったら、虫の音が耳に入った。あの草むらからだなと目星をつけて、足音を大きく鳴らしてみたが、虫の音は止まない。今度は草むらをめがけて小石を蹴ってみた。一瞬、止んだものの、またすぐ鳴き出した。

少し歩くと、線路沿いに出る。電車はもう走っていない。

線路沿いの金網は、錆びて変色していた。真新しい金網を思い浮かべながら、新しいのに変えればいいのにと思った。検索してみると、一メートルあたり二万円ほどするらしい。なら、このままでいいのかもしれない。

ふと、金網に足を掛けてみた。子供のころは靴を隙間に入れて登れたのに、もう入らない。無理にねじ込もうとしたとき、たわんでガシャンと音が立った。漫画だと、近所のアパートの住人に「うるせえ!」と怒鳴られるパターンだなと思った。

知らないバス停のベンチに腰を掛けた。座面が冷たかった。

時刻表を見ると、日中は「07」と「48」が並ぶ。07分に乗り遅れると大変だ。下には整形外科の広告がある。リウマチとはよく聞くけど、どういうものなのか見当もつかない。

線路の向こうの高層マンションを望む。明かりが灯っている部屋がある。まだ起きているのか、もう起きたのか、どちらだろう。明かりを辿って文字を作る。平仮名はつながっているから難しかった。

それからしばらく、足を投げ出して、ただ、呼吸だけをしていた。

「岡田君?」

突然の声に体がびくっと跳ねた。見ると、同じクラスの江田島君だ。

「江田島君?」

「やっぱり岡田君だ。似てるなと思って」

「似てると思ったぐらいでよく声掛けられるな」

「合ってたじゃん」

三脚を担いでいるのが見えた。

「カメラ?」

「うん。まあ」

「何を撮るの?」

「夜景とか」

「へえ」

お互いの口が止まった。

遠くで原付の音がした。新聞配達かもしれない。

「こんなに遅くて平気なの?」

「岡田君こそ」

また、お互いに沈黙した。

「じゃあ、そろそろ帰るわ」

「おお」

江田島君の背中を何となしに見送っていた。

原付の音が近くなった。音がしたり、しなかったり、規則的に続く。新聞配達だなと思った。

線路沿いを離れる。

小さいころ、遊びにきたことのある公園の前に出た。記憶の中ではさびれた感じだった遊具の色は、やけに鮮やかに見えた。

見覚えのない遊具もある。スプリングのついた木馬みたいなやつだ。パンダだけど。足で揺らしてみようとしたが、うまく揺らせなかった。今度は手で揺らしてみる。どこまで揺らせるだろう。思いっきり揺らしてみた。パンダがひたすらヘドバンしているようだ。

息が上がった。手を放しても、まだ小刻みに揺れている。こんなに揺らされたことはないんじゃないか。その揺れを足で止めた。

今度はコンビニの前に出た。

中は温かかった。雑誌コーナーの前を通り、ドリンク用の冷蔵庫の並びを抜け、パン売り場に来た。棚には食パン以外は何もない。弁当コーナーを見ても、弁当もおにぎりも一つもない。

ホットフードの什器に目をやると、メンチカツがあった。

そこに、スーツを来た男が入ってきた。一直線にレジ前に来ると、メンチカツを買った。メンチカツもなくなった。

店員がちらちらとこちらを見てくるのに気づいた。パックのカフェオレを買って、店を出た。袋がなかったから裸だ。

外はまだ暗い。目がなかなか慣れなかった。

今日はゴミの日らしい。集積所にゴミ袋が積まれている。その中に、破れて中身が散乱しているものがあった。

目を凝らすと、塀の上にカラスがいる。カラスは頭を左右に振っている。ゴミを踏まないように気をつけて通り過ぎた。振り返ると、カラスは地面に下り、ゴミ袋に頭を突っ込み始める。そうしているうちに、もう一羽、下りてきた。二羽が何かを引きずり出すのを見届けてから、その場を離れた。

家に帰り、カフェオレをマグカップに注ぎ、レンジで温める。

レンジの唸り声を聞きながら、スマホでSNSを開いた。タイムラインは止まったままだ。トレンドのタブを見ると、「流星群」の文字が目に入った。流星群でも見ればよかったと思って、誰か写真でも上げていないかと知らない人の投稿を見てみると、明日の話だった。

「何温めてんの?」

不意に声がした。振り向くと姉だった。

「カフェオレ」

「一個?」

「え?」

「私のは?」

「なんでだよ。自分で買って来いよ」

「まだ残ってるでしょ?」

姉はパックを持ち上げて中身を確認すると、「あるじゃん」と言って、自分のマグカップに注ぐ。

ピッピッピ。

「はい、あんたの」

そう言って、姉はレンジのマグカップを入れ替えた。

「見てる人いるの?」

「何が?」

「配信」

「いるよ」

「一人とか二人とかじゃないの?」

カフェオレを口に含む。少し噛んでから飲み込んだ。

「十人ぐらいいるときもあるよ」

「知らない人?」

「見てる人?」

「うん」

「知らない人っていうか、SNSでつながってるから」

レンジの唸り声が響く。

姉は「寒い」と言って、石油ファンヒーターをつけた。ジジジジ、ボッと、火がつく音がする。ジジジジは何の音なのだろう。足元に温かい風を感じた。

ピッピッピ。

姉は、レンジからマグカップを取り出すと、静かに飲み始めた。こんな早朝に姉弟が並んでカフェオレを飲む絵を想像して、笑いがこみ上げてきた。

「部屋で飲めよ」

「なんでさ?」

「変だろう」

「あんたが先に飲んでたんじゃん」

「俺は自分で買ってきて飲んでんだよ」

「はあ?」

テーブルの保護フィルムの下に、よくわからないメモがあった。「トートン」と書かれている。

「トートンって何?」

「ええ?」

「ここに書いてある」

「トートン」

「トートン」

「トートニじゃない?」

「トートニって何?」

「知らない」

姉が先に飲み終えた。

「洗っといてね」

それだけ言うと、部屋へ戻って行った。

マグカップを洗っていると、別のスリッパの音が聞こえた。多分、母だ。

「おはよう」

「おはよう」

「何か食べたの?」

「マグカップ洗ってる」

「置いててくれたら洗うよ」

「うん」

洗い終えて、食器拭きで拭いていると。

「朝ごはんはいいの?」

「少し前にカップ麺食べた」

「そう。お風呂は入っておきなよ」

「はいよ」

そう答えて部屋へ戻った。

エアコンのリモコンを置いて、その夜にあるティッシュペーパーで鼻をかんだ。ゴミ箱に放り投げる。入らなかった。

風呂に入らなきゃなと思いながら窓を見ると、カーテンの裾からうっすらと朝日が入り込んでいた。カーテンにはスポーツカーの柄が入っている。無地のに替えたいと思った。

シーリングライトを消した。一気に暗くなった。消すのが早かったかと思ったが、そのままベッドに転がった。布団はまだひんやりしている。エアコンからの暖気と布団の冷たさに挟まれた形になった。こういうときに風邪を引いたりするのかなと考えているうちに、布団も次第に温まってきて、どうでもよくなった。

遠くで姉の足音がする。朝の支度を始めるようだ。なんで姉はあんなに足音を立てるのだろう。自分の足音もうるさいのだろうか。スマホで録音してみようかと思いつつも、まったく音が録れてなかったら何の意味もないと思ってやめた。

エアコンの音が静かになった。時計の秒針の音が聞こえる。一、二、三……姉が出て行ったら風呂に入ろうなどと考えていたら、二十幾つまで数えたところでわからなくなった。また、一、二、三……と数え直した。

玄関ドアが閉まる音が響いてきて、びくっとなって目が覚めた。いま出て行ったのは、父だろうか姉だろうか。

部屋を出て階段を下りる。リビングのほうから聞こえるテレビの音を背にして、脱衣所に入った。服を脱いで風呂場に入り、雫がこぼれないように蓋を巻いたつもりだったが、大量にこぼれた。これで0・1度下がったなと思った。

何も考えずに頭と体を洗った。風呂を上がり、歯を磨くと、そのまま部屋へ戻って寝た。

夕方に起きた。PCの電源をつけた。昨夜の配信の接続数は十二人だった。ありがたいのかありがたくないのかわからない。スパチャはゼロだ。SNSを開いてタイムラインを流す。どこかで地震があったらしい。オススメで流れてきたコンビニスイーツがうまそうだった。

階段を下りて、テレビの音が賑やかなリビングへ向かう。

「あら、起きてきたの?」

母は、再放送のドラマから目を離さないでそう言った。

「うん。なんか食べるものある?」

「夕食にしようか? いまから作るから待っててくれる?」

「いいよ。みんなが帰ってきてからで」

「そう?」

冷蔵庫を開けると、ケーキの箱が入っていた。

「ケーキあるの?」

「ああ、それ、姉ちゃんがあんたにって」

「なんで?」

「知らない。昼過ぎに帰ってきたと思ったら、それを置いてまた出て行った」

「ふうん」

「喧嘩でもした?」

「してない」

「なんだろうね、あの子も」

「食べていいの?」

「あんたのだから好きにしな」

そう言われて、冷蔵庫からケーキの箱を出した。開けてみると、嫌いなモンブランだった。

「モンブランじゃん」

母に向かってそう言ったが、母はテレビに夢中だ。

箱をそっと閉じて、冷蔵庫に戻した。冷凍庫を見ると、焼きおにぎりがあった。ラップのままレンジで温めた。冷蔵庫から麦茶のボトルを取り、コップに注いだ。フィルムの下の「トートン」のメモを見た。「ト」は「ト」だろう。これは「ン」なのか「二」なのか。もしかしたら、「ソ」かもしれない。

ピッピッピ。

焼きおにぎりを取り出して、ラップを開き、ぱくついた。熱くて唇をやけどした。舌で触るとしょっぱいような、鉄っぽい味がした。血が出てるのかと思って指で触ったが、血はつかなかった。麦茶が染みた。

食べ終わってコップを洗ってると、母の「あとで洗うから置いといていいよ」という声を無視して洗い終えた。

部屋に戻る。シーリングライトをつけて、ベッドに仰向けになった。ライトが眩しい。つけなければよかったと思った。シーリングライトを眺めていると、動いているやつがいた。生きていたようだ。それとも、別のやつかもしれない。

虫は、他の虫を見分けられるんだろうか。

スマホのスリープを解除してみると、タイムラインのままだった。タイムラインを流す。また地震があったようだ。緊急地震速報も鳴ったらしい。うちは地震が来ても大丈夫なのだろうか。

そう思いながら、ティッシュペーパーで鼻をかんだ。ティッシュをゴミ箱のほうへ投げると、ポシュっと、入ったような音がした。もう一枚ティッシュを取って、唇にあててみると、唇に貼りついた。

(了)

奥付

雨の模様

著者
QU
公開日
2026年2月1日
備考
実験的な習作。