オートライトが消えるころ

「ありがとうございました」

そう言って講師室を出ると、廊下にはもう人気ひとけはなかった。

模擬試験の問題冊子を鞄にしまいながら、窓の外を見た。澄んだ青空を一筋の飛行機雲が走っていた。じっと見ていると、吸い込まれそうな感じがして怖くなり、窓のサッシに目をやった。黒い埃が溜まっていた。

階段を下り、エントランスホールを抜け、校舎から出ようとしたとき、ガラス扉に自分の姿が映った。目が合ったが、無視して外へ出た。色のない彼女は、じっとそのまま、ガラス扉から動かなかった。私は、何も選ばないことで、ここまで来た、来てしまった。

背中越しに扉が閉まる音が聞こえた。きっと、彼女は見ている。私は駐輪場へ走った。

駐輪場はがらんとしていた。

ぽつんと残された自分の自転車の元へ向かい、鍵を開ける。ガチャンという音と振動が重かった。自転車を押して駐輪場を出るとき、いつもとは違う方向へと前輪を向けたが、すぐに思い直して、いつもと同じ方向へと向きを変えた。

交差点の信号を待っていたとき。

向かいのコンビニに、見慣れた自転車が止まっているのを見つけた。よくあるシルバーの自転車だが、あれは、佐伯君のものだ。私も寄っていこうかな――と思ったと同時に、ガラス扉に映った姿が頭の中に浮かんだ。

信号が青に変わり、その交差点を後にした。

鉄道の高架下をくぐる。

少し遅れてオートライトが点いた。ひんやりとした空気が、ペダルを漕ぐ足を急かす。電車が通った。その音が響く。

と、その騒音の中に、誰かの声が聞こえた。

電車が通り過ぎ、高架下を潜り抜け、オートライトが消えたとき、「吉沢さん」と私を呼ぶ声が届いた。私はそのままペダルを漕いだ。

すぐにもう一度、今度はすぐ後ろから「吉沢さん!」と呼ばれた。

自転車を止めて振り向いた。佐伯君だ。

「ああ、佐伯君」

佐伯君は私のすぐ後ろに自転車をつけた。

「模試、どうだった?」

「うーん。どうだろう?」

「先生と何か話してたんじゃないの?」

「うん。ちょっとね」

そう言って、目を逸らした。

佐伯君はそれ以上何も聞かなかった。「途中まで一緒に帰らない?」と誘われて、ガラス扉に映った色のない自分の姿を思い出したが、「うん」と答えた。

そのあと何を話したのか、ほとんど覚えていない。「うん」「そうだね」と、相槌ばかり打っていた気がする。

川の堤防へ上がる坂道に差し掛かった。

立ち漕ぎしようと腰を浮かせたとき、どこからか、ふわっと、金木犀の香りがした。その甘い芳香に頬がほころんだ。ペダルが軽くなった気さえした。私は、きっとその日一番の笑顔で、隣にいる佐伯君に――

『金木犀が……』

と、二人の視線と声が重なった。お互いに吹き出したと同時に、崩れ落ちるようによろけた。咄嗟に足をついて、力の入らない足で踏ん張りながら、涙が出るほど笑った。二人の笑い声が響く中、ぼやけた先に見えた青空は、淡い茜色に染まり始めていた。

(了)

奥付

オートライトが消えるころ

著者
QU
公開日
2026年5月3日