九 オオシマザクラ

キッチンに、柔らかい香りが立ち上った。

ハルオは鍋をかき混ぜながら、かじかんだ手がコンロの火でほぐれていくのを感じた。この時間はまだ部屋に日が入らない。まだまだ寒い。

火を止めてスープカップを用意する。白いスープだから色のあるものがいいと思い、鮮やかな黄色のものを選んだ。撥ねないように気をつけて注ぐ。側面が熱くないか確認してから、両の手の平で包み込むようにして、ダイニングテーブルへ運んだ。

バケットが三切れ、茹でたブロッコリーが三房、そしてこのスープ。朝食の準備が整った。目を閉じてそっと手を合わせた。

バケットをちぎって口に放り込む。ハルオは堅いパンが好きだ。ちぎる感触、噛み応え、これらがないとパンを食べている感じがしない。スーパーマーケットで買えるパンは柔らかすぎる。ここ一番のときはこのバケットと決めている。少し遠くの店のものだが、ここのが一番堅い。ハルオのお気に入りだ。

スプーンを取り、ごく淡いクリーム色のスープを掬う。リカルダが冷凍して届けてくれたものだ。新じゃがいもと新玉ねぎのポタージュと言っていたか。一口含むと、下の上でじゃがいものホクホクとした温かさと、玉ねぎの透き通るような甘さが溶け合った。やさしい味だ。じんわりと温まる。

食事を済ませ、身支度も整えた。

ネクタイも用意していたのが、カール医師はいつもノーネクタイだったと思い出し、つけるのをやめた。子供向けの講演だ。ネクタイがないほうが子供たちに受け入れられやすいかもしれない。しかし、ネクタイがないのも落ち着かない。一応、鞄に入れて持っていくことにしよう。かさばるものでもない。

充電ポートからフォンを手に取る。着信はない。

そのすぐ横の、木製の写真立てを見た。ハルオ、アレン、生まれたばかりのミオを抱いたリカルダ、そして、エリーが並ぶ。エリーの写る最後の写真だ。その隣の写真立てには、コチョウランをバックに、ハルオ、表彰状を持つミオ、リカルダ、アレンが並ぶ写真がある。しばし、その二葉の写真を前に、去来する思いに囚われた。

「さあ!」

ハルオはそう言うと、目を窓の外に移した。

庭はがらんとして殺風景だ。先日、庭じまいをした。土だけになっていたプランターは処分し、木々もすべて伐根した。思っていたより根が張っていて、小さいながらも重機も入ることになり、思っていたより大掛かりになってしまった。

どれもエリーが大切にしていたものだ。最後の最後まで悩んだが、一人では手入れもできないし、それに……と思い切った。あの写真立てのフレームは、そのときの庭木で作ったものだ。思い出は残る。

いや、思い出より大切なものは、しっかりと残っているはずだ。

車がなかなか進まなくて、「なんで休みの日に工事してんだよ……」と、アレンは何度も同じ愚痴をこぼしている。「まだ余裕があるから、遅くなってもいいよ」と何度も同じようになだめる。

近くの道で水道管の漏水があったらしく、緊急工事をしているらしい。その渋滞にはまってしまった。普段なら似十分ぐらいで着くところ、まだ道半ばで、もう三十分が経とうとしている。

「なあ」

ハルオからアレンに話しかける。

「ネクタイしていないの、変じゃないか?」

アレンは何を呑気なことを言い出すんだと言わんばかりの、もの言いたげな目を向ける。

「珍しいよね」

「珍しい?」

「父さん、そういう身なりとか、気を遣う人だから。軍にいたころの写真を見たことがあるけど、他の人がわりとラフな着こなししてても、父さんだけはいつもちゃんとしてたでしょ?」

「そういう立場だったからだよ」

「ふうん。そういうもんかね。普段もちゃんとしてるほうだと思うけど」

息子にそんな風に見られていたのかと思うと、思わず笑みがこぼれた。

「変じゃなければいい」

「まあ、変ではないと思うよ。見慣れないけど」

曇り空の隙間から日差しが届いた。

「なあ」

「ん?」

「お前の家に住まわせてもらってもいいかな?」

「……ええっ!?

そのときのアレンの驚きようと言ったらなかった。

リージョン・センター前のロータリーには、目を引く桜の木がある。

今年の桜は早かった。三月中に咲いて散ってしまった。先日、打ち合わせに来たときにはまだつぼみが固い時期だったから、ちょうど見ごろを逃してしまったことになる。残念に思いながら、控え室からその桜を眺めていた。

振り返ると、ロングテーブルに置かれた祝い花が目に入る。

一番派手なのは、セレスからだ。散髪に行ったときに今日のことを話したら、いらないと言っているのに「花、贈らなきゃ」と一人ではしゃいでいた。

一番小振りなのは、ミオからだ。ミオは先月から、日帰り退院の許可が下りるようになった。月に一度だけだが、それを利用して、花を摘みに行ったらしい。あれはそのときに摘んで、飾りつけをしたものだそうだ。今日はミオは来ない。病室から配信で見ると言っていた。朝一番に「がんばってね」とメッセージが届いた。

コンコンとノックの音がして、エドウィンが戻ってきた。

「エドウィン、そばにいてくれないと」

「すみません。事務方がいろいろうるさいもんで。まだ緊張されてますか?」

「こういうことに慣れていませんから。それに……」

ハルオには一つ懸念があった。

「……内容、なのですが」

普通、元軍人が講演で話をするときには、事前に内容のチェックが入る。政府や軍に都合の悪いものではないか、はっきり言えば、検閲される。ところが、今回はそれがなかった。エドウィンがその辺をうやむやにしてしまっている。

「あとで問題になったりしませんか?」

ハルオがおそるおそるそう訊くと。

「なるかもしれません」

エドウィンはそう即答した。

ハルオは眉をひそめた。そう自覚できるほどに。懸念を抱いていることをエドウィンに伝えるために。

しかし、ハルオのその表情を見ても、エドウィンはひょうひょうとした表情で「問題視されたときは……」と、何か秘策でもありそうな口ぶりでこう言った。

「……そのときは、一緒に始末書を書きましょう」

エドウィンは、おどけた顔でハルオを見つめた。ハルオは思わず噴き出した。エドウィンもそんなハルオを見て笑い出す。二人の笑い声が部屋に響く。エドウィンといると、とっくに失ったと思っていた童心が蘇るような感じがする。

スタッフがエドウィンを呼びに来た。

「では、また、後ほど」

エドウィンはそう言うと、力強く頷いた。ハルオも頷き返した。

開始の時間が近づく。もうしばらくすれば、スタッフが呼びに来るはずだ。

ハルオは、ジャケットの内ポケットからフォンを取り出すと、ミオからの「がんばってね」のメッセージを開いた。その画面のままスリープさせて、また内ポケットにしまった。

車を降りるときにアレンが言っていたことを思い出す。

「ミオにとっては、父さんは英雄らしくてさ」

エドウィンからもカール医師からも、ミオがそう言っていたと聞いた。

「ミオが言うんだよ。おじいちゃんは、そっと寄り添ってくれる人だって。つらいときも、一方的にわからないような話をしても、黙って聞いてくれる人だって。でさ、同じことを母さんも言ってたんだよ。父さんはそういう人だって」

あの歌を思い出す。

アレンは姿勢を正すと、「今日はがんばってくれよ。ミオも、リカルダと一緒に病室で見てるんだから」と言った。「ああ。がんばるよ。ありがとう」と、初めて、アレンと――息子と握手をした。

そこへスタッフが声を掛けてきた。

「そろそろお時間です。ホールのほうへお越しください」

ハルオは「はい」と答えたが、風にそよぐ桜の葉から目を離さなかった。

「もう少しもってくれたらよかったですね」

何の話かわからなかったが、スタッフの「ああ、外のオオシマザクラです。ご覧になっていたので」との補足で理解した。

「オオシマザクラというのですか。前に来たときはまだつぼみだったんです」

「あらー。ちょうど見れなかったんですね」

「ええ。ちょうど。でも、それもまた、巡り合わせですから」

そう笑顔で答えた。

司会者からハルオの紹介が終わった。

ハルオは大きく息を吸って立ち上がった。そして、大きく息を吐いた。水差しの置かれた講演台につくと、壇上からホールを見渡した。

客席後方にある配信用のカメラが目に入った。結局つけたネクタイを直す素振りをして、胸の、内ポケットのフォンの感触を確かめた。大丈夫。そう自分に言い聞かせてから、真っ直ぐに前を向いた。

軽く咳払いをしてから、マイクのスイッチを入れる。

* * *

因果関係という言葉があります。

原因があって結果がある――逆に、この結果を引き起こしたのはこの原因である、と。

いま、ここにボールがあるとします。

これを一本の糸で引っ張ると、ボールは引っ張られた方向へ動きます。ボールが動いたのは、意図で引っ張られたから――これが因果関係です。

しかし、現実は、そんな単純ではありません。

そんなに簡単に原因と結果を分けられるほど、単純ではないのです。

現実のボールは、無数の糸で引っ張られています。

ボールがある方向へ動いたとき、どの糸で引っ張られたかを特定することは困難です。この糸かもしれないし、あの糸かもしれない。もしかしたら、たくさんの糸で引っ張られたのかもしれない。

それに、糸が見えるとも限りません。自分からは見えない糸、また、誰からも見えない糸だって存在するのです。

見えない糸も含めたたくさんの糸が、それぞれの方向へ引っ張り、あるいは引っ張らなかったり、その結果としてボールが動いたと、そう考えるしかありません。

みなさんには、同い年の人がいますよね。

いま、同い年の人の顔を見回してみてください。

見回しましたか?

では、後ろを見てください。

客席の後ろには、この会場を撮影しているカメラがあります。カメラの向こうには、ホームでこれを見ている、同い年の人が何人もいたはずです。

でも、みなさんからは見えません。

見えないけれど、確かに存在するのです。

社会には、実に多くの人々がいます。

人口が何億人だという知識を知っていたとしても、実際には、そのほとんどを知らないまま、私たちは生きています。

みなさんが食べている食べもの、着ている服、このホールだって、たくさんの人たちが作ったものです。そんなことは当たり前なはずなのに、私たちは、実際にはその人たちのことは知りませんし、普段、気にも留めていません。

でも、いいですか、だからと言って、存在しないのではないのです。

見えないものは、存在しないのではありません。

見えないからと言って、存在しないと思ってはいけません。

いま、私たちが生きているのは、たくさんの人たちからの、たくさんの糸によって引っ張られた結果です。こうしている間も、常に、たくさんの誰かからの、たくさんの糸によって引っ張られています。

そして同時に、皆さん一人ひとりもまた、たくさんの誰かを、たくさんの見えない誰かを、たくさんの糸で、たくさんの見えない糸で引っ張っているのです。

みなさんにとって、大切な人を心に浮かべてみてください。

その人を大切に思う気持ちも、見えない糸です。

誰かを傷つける感情も、見えない糸です。

見えない人を見ようとしてください。

見えない糸を見ようとしてください。

私たちは、そのようにして、つながっているのですから――

(了)