八 サザンカ
ミオの元を訪ねるのは何度目になるだろう。
年末年始は体調を崩して来れなかったものの、定期的に見舞いに来ている。贖罪、というほど大仰なものではない。何かしてやれることはないか、探しに来ているようなものだ。
小児病棟に入ると、正月らしい雰囲気に満ちていた。
壁には、しめ縄飾りや凧が飾られている。凧の絵は、院内の子供たちによるものだ。どれも微笑ましくてつい目が留まる。ロビー手前には門松が飾られている。ニホンの伝統的な正月飾りらしいが、由来は知らない。
プレイスペースから、ミオの朗々とした声が聞こえてくる。
ミオは、幼い子供たちを相手に、読み聞かせをしている。その声を聞きながら、カードを端末に読ませて受付を済ませた。小さな観客に囲まれたミオは、こちらに気づきながらも、絵本の朗読を続ける。テンポやトーンを変えながら、まるで演じるように読む。子供たちに目をやると、目を輝かせている者もあれば、口がぽかんと開けっ放しの者もいる。ミオも子供たちも楽しんでいるようだ。
その様子が見えるベンチに腰を下ろす。そこから窓の外を見やると、すっかり葉を落とした木々が見えた。静寂なもの悲しさを感じないでもないが、あれらももう何か月かすれば、新しい目や葉をつける。
エリーは植物に明るかった。一方のハルオは疎い。よくあれこれ説明してくれてが、あまり覚えていない。でも、エリーの説明を聞くのは楽しかった。いまでもそのときの光景がふと蘇ることがある。目を閉じると、その声が聞こえてくるような気がする――いまはミオの声が聞こえる。これは、知っている物語だ。何の話だったか――
「おじいちゃん、終わったよ」
その声で目が覚めた。眠ってしまっていたようだ。周りを見ると、子供たちの姿はもうない。昼食の時間に入ったようだ。
「つい寝てしまった」
慌てて姿勢を正したら、足元にブランケットがはらりと落ちた。ミオはくすっと笑いながらそれを拾い上げると、「スタッフさんが掛けてくれたんだよ」と教えてくれた。そんなに眠っていたのかと恥ずかしくなった。
二人でミオの病室へ向かう。
ミオには院内食が出るが、当然、ハルオには出ない。だから、来る途中に買ってきた。正月らしいものをと思ったものの、一人でお重を模した容器に入った弁当を食べるのも気が引けて、結局、いつものパンになった。ミオが袋を覗き込みながら、「おじいちゃんはパンが好きだね」と笑う。
一緒に食事を摂りながら、ミオは近況についてあれこれ話し出した。登場人物が多くて内容は把握できなかったが、ミオはみおなりに、楽しくやっているように思える。こうして話を聞いていると、以前の元気なミオのままだ。
しかし、初めのころはそうでもなかったらしい。
ミオは週に三回、いろいろな検査を受けている。
あれから大きな発作こそないとは言え、スクールに通えず、コミュニティにも参加できず、ずっと病院内にいる。検査も、半日から丸一日かかるものまであるらしい。心身ともに負担が大きいだろうことは想像にかたくない。
アレンに聞けば、入院当初は大きなショックを受けている様子も見られたという。特に、リカルダの前では泣きじゃくることも少なくなかったようだ。
それがいつからか、医師、看護師、スタッフ、周りの子供たちとも打ち解けるようになり、明るい表情がとりあえずは戻ったように見えた。
もっとも、それでもたまに、表情に翳が差すこともある。テレビなどで生き生きと活動している人たちの姿を見ると、自分と比べてしまうのだろう、つらくなって落ち込むようだ。だから、この病室にはテレビはない。撤去してもらったそうだ。
代わりに、ラップトップのコンピューターがある。ホーム・ラーニングに使用している端末で、配信されている授業を元に勉強しているという。空き時間には、子供たちの世話をしているというから、その活動力はたいしたものだと思う。
ミオが眠ってしまった。
午前に検査を受けていたというから、疲れていたのだろう。そっと布団を掛けて、音をたてないようにドアを開け閉めし、病室を出た。
フォンで時刻を確認すると、まだ十四時だ。せっかくだから、ヨコハマまで出て夕食用にシウマイでも買って帰ろうか、などと考えていると、カール医師を見かけた。
「カール先生」
「やあ、ヤーチさん。お見舞いですか?」
大袈裟に表情を変え、手ぶりを交えて、歓迎の意を表してくれる。小児科の医師として相応しい人だと思った。実際に、子供たちからも慕われているようだ。
「はい。でも、もう帰るところです。ミオが寝てしまったので」
「ああ。今朝は早くから検査だったんですよ。お疲れだったのでしょう」
半ば定型的なやり取りが終わり、挨拶をして立ち去ろうとしたところ、カール医師が「ヤーチさん、私の部屋でお茶でもいかがですか?」と誘ってきた。ミオのことで何かあるのではないかと、どきっとした。
カール医師の部屋には、鏡餅が飾られていた。
何気なくそれを眺めていると、「それは作りものなんですよ。だから、食べられません」と残念そうな表情で嘆くように言う。二人でソファに腰掛けて、そんな他愛もない雑談をしていたのだが、カール医師は、機が熟したと言わんばかりに、「ヤーチさんは、元軍属の方だそうで」と切り出した。
「はい、そうですが」
「ミオさんに伺いました。おじいちゃんは英雄だと」
暗いものがこみ上げてくる感じがしたが、表情に出すまいと心がけた。実際、どうだったかはわからない。
「そうですか、ミオが」
平然さを装ってそう答えた。
「はははは。あまり触れられたくないご様子ですね」
表情に出てしまっていたようだ。
「実は、私も元軍属です。軍医をしていました。ヤーチさんのお話も存じ上げています」
カール医師が元軍医だということに驚いた。ついさっき、表情の豊かさから小児科医として相応しいと思ったばかりだ。と、同時に、自分のことをどこまで知っているのか見定めることができず、体が強張ったことを自覚した。どう反応すべきか迷った末、「はあ」と曖昧に返事をした。
「私は若いころ、前線近くにいたんですよ。周りの街は大きな被害を受けましてね。我々の乗った車輛は、逃げるのに必死でした」
ハルオの中の戦場の記憶が呼び起される感じがした。まだ話がよく見えない。思わず組んだ手の指先が冷たかった。
「民間人にも被害が出ました。車輛の中から、いま手当てをしないといけない人々を何人も見ました。でも、私には、車両を止める権限がありません。見捨てたんですよ。医師としての倫理を通せなかった」
写真で見たアーサー・ホイットフィールドの車椅子姿が頭に浮かんだ。
「そんなとき、あなたの話を聞いたんです。かつて、命令違反を犯して民間人を助けた上に、それを軍にいいように利用された馬鹿野郎がいると」
カール医師は、より大きく表情と手を動かし、「私が言ったことではありませんよ。そのように伝わってきたんです」と付け加えた。ハルオは「よく言われたことです」と自嘲気味に言い添えた。
「私はね、その逸話を聞いて感動したんです。軍の中では皮肉交じりに『英雄』と揶揄されてますが、いやいやどうして、本物の英雄じゃないかって。あなただけではありません。犠牲になったあなたの部下のみまさんも、本物の英雄ですよ」
そう一息に捲し立てると、興奮冷めやらぬといった感じでローテーブルに身を乗り出して、ハルオの冷たい手を取った。
「その次の日ですよ。スパーンと辞表を叩きつけて、軍を辞めたのは」
「えっ」
ハルオは思わず声が出た。
「前に、ミオさんからあなたの話を聞いたんです。その話があまりにも、かつて聞いた話と似ていたものですから、お名前を調べてみたら、同一人物だとわかりまして――」
何と言うことだろう。エドウィンのときもそうだったが、こんな出会いがあるなんて、夢想だにしなかった。いずれも、ミオが手繰り寄せてくれたつながりだ。
「――まさか、ご本人にお会いできる日が来るとは、思いませんでした」
ヨコスカまでの帰途、さまざまなことを反芻した。
カール医師は、同じ話をミオにしたことがあるという。軍医だったときに耳にした英雄のこと、その英雄とはハルオだったこと、その英雄に倣って軍を辞めたことなど、ミオに話したと。
ミオは、感激していたらしい。それ以降、暗い表情は見せなくなり、病院のスタッフや周りの子供たちに、積極的に声をかけるようになったそうだ。
ミオはそんな話はしなかった。アレンたちに口止めされていたのかもしれない。おじいちゃんは昔のことに触れられたくないから、と。
ものごとは、何がどう転ぶか、本当にわからない。
ひとつひとつの断片は、しかし、断片ではなかった。
時間も場所も異にしたそれらは、事実、互いに作用し、思わぬ結果を生み出した。こうしているいまも生み出しているかもしれないし、そして、これからも生み出していくのかもしれない。
必ずしも意図したことではない。むしろ、意図に反したこととも言えるし、意図を超えたこととも言える。
ああ、何と言うことだろう……。
空を見上げると、夕焼けに照らされた雲が流れて行くのが見えた。
近所の垣に植えられたサザンカは、そのほとんどが散ってしまっていた。濃いピンクの花弁が、歩道の一角を埋め尽くしている。この手の花は、散るというよりは花ごとぼとりと落ちるものが多い。ところが、サザンカは花弁を一枚ずつ散らしていく。エリーの受け売りだ。
ハルオは屈み込んで、花弁を一枚拾い上げた。
この花弁はどこへ行くのだろう。手の平に乗せて、ふっと息を吹きかける。花弁は、舞い上がったかと思うと、ひらりと揺れるようにして、また歩道に落ちた。
ハルオもまた、たくさんの誰かに吹かれて、いまここにいる。同時に、たくさんの誰かを吹いてきたはずだ。
――ハルオには、きっと必要なことだと思う
そうだな、エリー。必要なことだったよ。
ハルオは家に着くと、バッグからフォンを取り出した。「エドウィン・ホイットフィールド」の連絡先を開くと、そのまま電話を掛けた。
エドウィンはすぐに出た。定型的な挨拶を済ませると、ハルオはこう切り出した。
「戦争講話の件、お受けしようと思います」