二 モミ
旧世紀から軍港が置かれたこの街では、海軍伝統のカレーライスが名物だ。
もともとは脚気対策だったと聞く。ニホンでは古くから米が好まれてきたが、偏りすぎると脚気になりやすい。そこで軍が、肉や野菜をまとめて食べられるようにと採り入れたのが由来らしい。ハルオも軍港の食堂でよく食べた。
海岸から丘へ向かって緩やかに上るこの道は、ミサキ半島を縦断する古い街道だ。この道沿いにカレーライスのうまい店がある。ミオのお気に入りだ。
レンガ貼りのステップを上がり、木製の重いドアを開けると、ドアチャイムの音が涼やかに響いた。サーバーが「いらっしゃいませ」と出迎える。やや気取った感じが鼻に突くが、発声と所作の美しさにハルオはいつも感心させられる。
二人は窓側のソファ席に案内された。
ハルオはゆっくりと腰を下ろした。ミオに悟られないように、テーブルの下で膝をさする。ミオは向かい席に座ると、メニュー端末を手に取った。早速、パフェのページを開いている。
ハルオは、上着とバッグを脇に置きながら、「もう具合はよさそうだな」と切り出した。ミオは何の話かわからず目を丸くしたが、すぐに思い当たったようで、少し呆れたような目で「それ二週間も前の話ー」と笑みをこぼした。
ミオには、喘息の持病がある。
二週間前、夜中に発作を起こして救急病院に搬送されたらしい。ミオは、父親のアレン――ハルオの息子である――とその妻のリカルダと三人暮らしだが、その夜はアレンと二人きりで、突然の発作に慌てたアレンが救急病院に担ぎ込んだという。家には、発作用の薬が常備されていたというから、アレンは面目なかったことだろうと思われる。リカルダは看護師をしているから、普段は任せっぱなしだったのかもしれない。
と、そんな話をリカルダから聞いたのがつい三日前だ。ハルオにとっては、十分に新しい情報と言える。
「来週の表彰式には来てくれるんでしょう?」
ミオのコミュニティグループが表彰されることになった。長年にわたる清掃活動が認められたのだ。代表として、ミオが登壇することになっている。
「うん。行くよ」
「じゃあ、その前に、散髪してきてね」
「……そうだな。散髪しなきゃな」
ハルオは、耳にかかった髪の毛の長さを確かめるように掻き上げながら、そう自分に言い聞かせた。
妻のエリーは、軍港内の美容院に勤める美容師だった。
ハルオもそこで髪を切っていたから、エリーに切ってもらうことも少なくなかった。エリーは客によく話しかけるタイプの美容師で、ハルオは美容師から話しかけられたくないタイプの客だ。ハルオはエリーが苦手だった。店に入ってエリーがいないとほっとしたことさえある。
エリーは、地球生まれではなかった。
物心がつくかつかないかのころに、母親と二人で地球に移ってきたという。もともとそういう身分ではなかったとエリーは言っていたから、不法移民者ということになる。地域によっては厳しい取り締まりもあったと聞く。軍からは追われ、行政に助けも求められず、一般市民からは白い目を向けられる。つらい子供時代を送っただろうことは想像にかたくない。
注文したカレーライスが運ばれてきた。ミオは両手を合わせて目を閉じると、「いただきます」と言ってからスプーンを手に取った。
ハルオは、エリーもそうしていたなと、エリーの姿をミオに重ねた。それに倣うように軽く手を合わせてからスプーンを取った。「いただきます」とは言えなかった。
地球に住む人々とそうでない人々の間には、深刻なまでに大きな溝がある。
地球に住めるのは特権階級かそれに近い立場の人々に限られる。彼らにとって、自分たちに見えないものは「存在していないもの」と同義だ。宇宙のどこかで大量虐殺が行われたという報道を見ても、それは知識でしかない。現実の出来事と結びつけたり、心を痛めたりすることは稀だ。
では、その「存在していないもの」が目の前に現れたら、彼らはどうするか。おそらく「存在してはいけないもの」として扱うだろう。穢れそのもののように蔑み、自分たちと関わろうものなら虐げる。そういう場面をハルオは何度も見てきた。
ハルオには、自分もそんな特権階級だという自覚がある。スパイスの辛さの中に苦みを感じた。それを流したくて、グラスの水を飲んだ。
エリーの母親は、どれほどの目に遭い、どれほど苦しんだのだろう。地球に流れてきて十余年が経ったころ、彼女はまたどこかへ流れて行ってしまった。ハイスクールに入ったばかりのエリーを残して。
しかし、母親を責めることはできない。エリーをハイスクールに入れただけでも奇跡のようなものだ。幾ばくの辛酸を重ねたのか想像に堪えないし、その苦衷は測り知れない。たった一代で負の連鎖を止めたと言える
エリーはその後、どうなったか。
ヴァシレ・ドゥカによって拾われた。ヴァシレは、軍港内で関係者用の美容院を任されていた人物だ。経緯は知らないが、彼は独りになったエリーを引き取り、ハイスクールを卒業させた。そして、どこからか奨学金を取ってきて、美容師の専門学校へも通わせた。言うまでもなく、奨学金は、地球生まれの身分がないと取れない。ヴァシレが「どうにかした」らしい。
ヴァシレという人物には謎が多い。ハルオより二回りぐらい上の男性ということはわかるが、それ以上の素性とくるとまるで知れない。美容院を任されながらもハサミを握る姿を見たことがないから、美容師ですらないかもしれない。兵士の間では――実は、身元を明かせない大物で、軍に匿われているのではないか――との噂が囁かれていた。眉唾とは言い切れない。現に、ヴァシレは、エリーに地球生まれとしての身分を与えた。普通の話ではない。
ミオがパフェを注文した。ハルオが遅刻した罰だという。おそらく、ハルオが遅刻しなかった場合は、ご褒美として注文させられていたはずだ。そういうやりとりも悪くない。何より、そんなささやかな日常を過ごしていることは奇跡だと、ハルオは感じている。
ハルオがヨコスカに来たころには、エリーはあの美容院を刺させる存在になっていた。初めのうちは彼女の店だと思っていたぐらいだ。たまにふらっと顔を出すヴァシレについての噂を聞いたのは、だいぶ経ってからだった。
そんなヴァシレは、ある薄暮の夕方、交通事故で亡くなった。
エリーの悲しみは言うまでもない。父親を知らない彼女にとっては父親のような存在、いや、この地球で行き場のなかった彼女にとっては、方法はどうあれ、新しい人生を与えてくれたのだから、それ以上の存在だったと言えるだろう。その日、ヴァシレはいつものように翌日に飾る花を買いに出て、そのまま帰らぬ人となった。あまりに日常すぎて、最後に交わした言葉さえ、エリーは覚えていないと言っていた。
店のすぐ裏に、モミの木がある。
知らせを聞いたエリーは、店の裏口を飛び出し、その木へ縺れる足で走った。勢いを削ぐことなく太い幹にもたれかかると、そのまま滑り落ちるようにへたり込んだ。そして、肩を震わせ、声を殺して泣いた。
そこへ、ハルオが通りかかった。
ハルオは何も声を掛けないままそばに立っていたが、エリーが気づいて欷泣に溢れた顔を向けると、静かに片膝をついてそっとハンカチを差し出した。手に取ったエリーは「ありがとうございます」と言ったつもりが声にならなかった。ハルオはその声にならなかった声に「いえ」とだけ答えた。それきり二人は何も話さなかった。ただ、時間と空間を共有した。
それからである。エリーは、ハルオが髪を切りに来ても以前のように積極的に話しかけることをしなくなった。沈黙が心地よかった。その数か月後、二人は結婚した。ハルオの髪はエリーが切り続けた。エリーが津波にさらわれる、ほんの数日前まで。
パフェを平らげたミオに言う。
「明日にでも切りに行くよ」
ミオは疑いの目を向けてこう念を押した。
「明日は月曜日だから、美容院はお休みだよ。明後日だね。約束だよ?」
「そうだった。明後日だな。約束だ」