三 ユーカリ

鼻腔がじんと痺れる。頬が火照り、皺が浅くなる感じがする。

店を出たあと、ハルオはミオに引っ張られる形でアレン宅まで歩いた。小一時間といったところか。家に着くと、リカルダが出迎えてくれた。ミオは「歩いて帰ってきた」と正直に言って叱られた。おじいちゃんは足がよくないんだから、と。

勧められるまま断り切れず、泊まることになった。それで風呂だ。

道中、ミオはのべつ話し続けた。友達の誰それが何をした、こんな本を読んだ、こんな動画を見たと、よくもそんなに話ことがあるものだと感心した。うんうんと頷きながら聞いたが、もうほとんど覚えていない。膝に湯をもみ込みながら、「酷い目に遭ったな」とおかしげに口元を緩めた。

湯に深く浸かりながら目をつむり、息を吐きながら顎を上げた。今度は大きく吸い込むと、体が内からしっとりと温まる感じがして心地よい。ゆっくりと目を開くと、曇る天井が近くに見えた。浮いているように感じられた。

風呂を上がり、用意されたスウェットを着る。アレンのものだろう。ウエストが緩い。脱衣所の鏡には、曇り止めが塗られているのか、浴室からの湯気でも曇らない。そこに映った、いかにも風呂上がりの姿を見て、風呂まで入ってしまったと思った。

リビングに入ると、テレビを観ていたアレンが「早いじゃない」と言って振り返った。

「ゆっくり浸かってくればいいのに」

「慣れてないんだよ。湯に浸かるのは」

エアコンの暖気が火照った体に暑かった。

「シャワー派だったっけ?」

「一人だしな。それに音が……」

つい口が滑ったと思ったが、そこで止めるのも不自然だと思って「……音が好きなんだよ」と続けた。シャワーヘッドから湯が噴き出す音、それが壁や床で撥ねる音、それらが複合する乱雑な音に包まれていると、何も考えなくて済む。と、本音を明かした気分になって、アレンから目を逸らした。

リビングからダイニング、キッチンへと視線を滑らせる。サーキュレーターが首を振りながら、暖気を乗せた風を運んでくる。そこに、さわやかな香りが混じっていた。源を目で探す。あの鉢植えからか。

「ミオとリカルダは?」

「ミオは自分の部屋。今日のレポートを書くんだと」

そう言われて、見えないはずの二階を見上げた。

「リカルダは買いもの。夕飯の。……急に来るから」

責められた気がして、「それは、申し訳なかった」と視線を落とした。気が回らなかった。ミオの笑顔が頭の中に浮かび、少し浮かれていたのかもしれないと反省した。

「まあ、別にいいよ。父さん一人暮らしだから、リカルダは普段から気を掛けてるんだよ。もう七十だろう?」

あの津波のあと、うちからほど近いマンションに住んでいたアレン家族は、この丘の上に建つ家に引っ越した。そのとき、再三「一緒に」と誘われたが、エリーと暮らした家を手放すことはできなかった。この話の流れでまた誘われるのではないかと嫌い、「さあな」とだけ答えた。アレンもそんな父親の気分を察してか、そこで話を打ち切り、テレビのほうへ向き直した。

ハルオはテーブルに置かれたペーパーを手に取った。新聞や雑誌を読むための電子端末だ。画面が立ち上がり、ニュース、天気予報、ファッション雑誌などのアイコンが並んで表示された。その中に釣り雑誌があった。

「まだ釣りをしているのか?」

「部下が釣りを始めてさ、教えてくれって言われてて」

ヨコスカに来てから、同僚に誘われて釣りを始めたことがある。海へ糸を垂らしていると、時間が止まっているようで気に入っていた。が、魚の時間は止まらない。逃げられてばかりだった。あまりに釣れないから面白くないし、ただ海を眺めているだけでいいと気づいたので、二か月ほどで辞めた。

それが、アレンが学生のころに急に興味を持ち出して、一緒に釣りに出かけるようになった。二十年振りの釣りだった。相変わらず釣れなかったが、アレンは才能があるようで、わずか数回で生涯釣果を超えられた。

「お前はうまかったから、いい先生になるよ」

「学生のころ以来、してないんだけどね。しかし、父さんは下手だったなあ」

テレビを向いたまま笑っている。

外から車のバックブザーが聞こえた。

反射的に時計を見ようと壁に目を向けたとき、その壁に備えつけられた手擦りが目に入った。水回りのほうからリビングを通り、引き戸へと続いている。普段は使われていない部屋への入り口だ。ハルオの部屋である。もううるさく誘ってくることはないが、十年以上、ずっと、用意してくれている……。

いけない、と、ペーパーに目だけを戻した。

バタンと車のドアが閉まる音がした。二階から階段を下りる軽やかな音がリズミカルに響く。玄関ドアが開き、「おかえり」とミオの声が、続いて「ただいま。日が落ちると寒いね」とリカルダの声が重なった。

「お買いものできた?」

「うん。買ってきたよ。これから用意するから、もうちょっと待っててね。あっ、手伝ってくれてもいいよ?」

「あはは。じゃあ、手伝うよ」

リビングに届く二人の会話のぬくもりが、ハルオの体の最深部に眠っていた熱いものを呼び起こす呼び水となった。胸から指先へ、足先へ、確実に広がっていく。

家族だ――ハルオはそこまで出かけた声を飲み込んだ。

料理はアレンがする。

だったら、自分で買いものに行けばよさそうなものだが、仕事の目で見てしまうのが嫌なのだとか。アレンは、食品衛生監視員をしている。食品を扱う営業施設や流通食品の検査、食中毒の調査指導を行う仕事だから、店頭に並ぶ食品を見るとどうしても気になってしまうらしい。

しかし、料理の腕はなかなかのものだ。子供のころから手伝いでよく料理をしていたし、学生のころはアルバイトで有名店の厨房に立っていたこともある。動きに迷いは見られない。実に手慣れたものだと感心する。

アレンの横では、ミオが引きも切らずに話しかけている。アレンは手を止めることなく、相槌を打ったり、話を膨らませたりして、娘の充足感を満たしてやる。日中の自分を顧みて、胸の奥で気が咎めた。

リカルダが大皿の用意をしながら、「レポートは済んだ?」と尋ねた。ミオは「明日することにした」と返す。

明日はホーム・ラーニングにしたようだ。

いまの子供は、スクール、コミュニティ、ホームの三つのチャネルを行き来しながら学ぶ。スクールで授業を受けることもあれば、地域の人たちと活動を通じて学ぶこともあるし、カスタマイズされた課題に自宅などで取り組むこともできる。それぞれの気質や状況に合わせて、学びかたを選択する仕組みだ。

ミオは、週に三日はスクールに通うが、それ以外はコミュニティでの学びを優先しているという。他人と協働することに喜びを感じているようだ。明日ホームを選んだのは、今日の清掃活動で疲れることを見越してのことだろう。

「いまの子供はいいなあ」

アレンが無邪気にそう言った。

「サボりたいだけでしょうに」

リカルダは呆れたようにそう言って笑った。

十数年ほど前までは、画一的な教育システムが当たり前だった。いわゆる靴に足を合わせる教育だ。しかし、多種多様なルーツを持つ子供が増えるにつれ、限界を露にした。それで、大改革が断行されたのである。足に合った靴を履けるようにしたことで、いくつもの教育問題が解消されたという。

しかし、アレンではないが、もし、自分たちの時代にこのような仕組みがあったら、と思う。エリーは、つらい目に遭わずに済んだかもしれない。そんな思いが胸を掠める――いや、そうなっていたら、ヴァシレに拾われることも、自分とも出会うこともなかったか……。と、人の人生を独善的な天秤にかける思いに囚われた自分が厭になった。

……プ……。

ハルオは電子音に敏感だ。「着信だぞ」と誰にあてるともなく声を掛けた。

リカルダは自分のフォンを確認すると、「アレンじゃない?」とフライパンを揺する夫に顔を向けた。「ありゃ」と間の抜けた声を発したアレンは「どこから?」と確認を促した。リカルダはアレンのフォンを見て「オダワラ保健所、だって」と伝える。アレンは眉をしかめて「オダワラ? なんだろ。漁港関連かな」と考える素振りを見せたが、すぐに「いいや。緊急なら家に電話してくるよ。ありがとう」とフライパンに目を戻すと再び揺すり始めた。「知らないよ?」とリカルダはいたずらっぽっく笑う。

「あっ、そうだ」

そうつぶやくと、リカルダはシンクで霧吹きに水を足す。「エアコンつけてると、加湿器をつけてても葉がすぐに乾くんですよ」と、ハルオの座る横を抜けて、鉢植えの葉に噴霧した。その様子を眺めていたハルオの視線に気づき、「ユーカリ、お好きですか?」と尋ねる。ハルオが「清潔感のある香りがいいね。すっきりする」と答えると、リカルダは得意気に「ですよね!」と笑顔で返した。

オレンジ色のスープから湯気が立ち込める。

暖色のライトのせいもあって、より鮮やかに目に映る。スプーンで掬って口元へ運ぶと、やや土っぽい香りがした。カブか。その大地の匂いに安堵感が呼び起される。口に入れると、やさいい甘さをまとったとろみのある液体に舌が包み込まれる。かすかにほころんだハルオの表情を、向かいに座るリカルダは見逃さなかった。

「お口に合いますか? カブとニンジンのポタージュです」

「うん。おいしい」

「よかったー。週末に作って、冷凍してたものを温めただけなんですけどね」

そう微笑みながら、しらすと刻んだ大葉が乗ったスパゲティを小皿に取り分け、「お父さん、しらすがお好きだから」と静かに差し出した。ハルオははっとして「そうだ、買いもの。申し訳ない。突然来ちゃったから」と謝ると、「ミオが引っ張ってきたようなものですから」と温かい笑みで返した。

それを聞いたミオは、頬と鼻を膨らませると、「おじいちゃんも『行こう』って言ったんだよ。ね?」と同意を求めてきたから「そうだな」と頷いて見せた。

アレンは別の大皿からカルパッチョを取り分けながら、「スープ、気に入ったなら持って帰ればいいよ。まだ小分けにしたストックがあるから」と隣の春をに顔を向けたとき、袖をグラスに引っ掛けた。

「ちょっとー!」

リカルダは慌てて腰を浮かせて、ダストペーパーに手を伸ばす。「何してんのー」とミオは楽し気な声を上げる。

「そういえばこないださ……」

「えー、そんなこと言ったの?……」

「だからそれは……」

三人の声が遠ざかっていく……。

ハルオは、鮮やかな色を発する三人を、暗い客席からスクリーン越しに観ているような――また、その光景さえも、どこか遠くから眺めているような感覚に陥った。ついさっきまで、自分もあそこにいたはずなのに――

不意に、あの引き戸が脳裏を横切った。

あの引き戸を開ければ、自分もスクリーンの中に入れるのだろうか。自分にその資格があるのだろうか――

「おじいちゃん? 大丈夫?」

その声で引き戻された。動揺して思うような声を出せず、「ああ」と生返事のような返事をした。ミオは心配と呆れがまじったような表情をして、「ちゃんと髪を切ってきてね」と念を押した。ああ、表彰式の話になっていたのかと気づいた。

サーキュレーターの風を背中に感じた。ユーカリの香りは届かない。