四 イチョウ
もうすぐ夜が明ける。
辺りは青紫色に染まっている。先には、街路灯が切り取った白い円が並ぶ。歩いていると、明るく照らされたり闇に覆われたり。
ハルオは、まるで人生のようだと思った。もっとも、ずっと照らされることのない人生だってある。たとえ、いま照らされているとしても、先のことはわからない。次の一歩から闇に落ち、永遠にそれが続くかもしれない。ほんの些細なことで明暗は分かれるものだと思う。
明るい世界から闇に向かって吐く息は、白く立ち上手は消えてゆく。さすがに堪える寒さだ。昨日は荷物になった上着だが、羽織ってきてよかったと思った。吸気が鼻に痛いが、きんと刺すような感覚は、懊悩とする気持ちをすっきりさせてくれる気もする。
「呼吸が大切なのよ」
エリーがヨガに熱を上げたことがある。教室にも通い、家でもよく動画を真似していた。動画には、人間にこんな姿勢ができるのかと驚くポーズもあった。彼女もそれほど体の柔らかいほうでない。「そんなポーズできるの?」と訊いたら、「できない。でも、呼吸が大切なのよ」と言っていた。教室はあまり続かなかった。
あるとき、「前にさ、ヨガをやっていたじゃない?」と言うから、「やってたね」と答えると、いつになく真剣な眼差しで「ハルオには、きっと必要なことだと思う」と言われた。「あんなポーズできないよ」と茶化したら、「あははは。そうだね」と笑っていた。
早朝に歩いていると、呼吸が気持ちよく感じることがある。空気が澄んでいるのもあるだろうが、体内が浄化されるような、そんな感じがする。過去に囚われて思い悩むことの多い自分には、確かに必要なことかもしれない。
昨晩のこと。
やはりその日のうちに帰ろうとしたものの、引き留められた。あの部屋で寝ることとなった。床に就き、寝返りを何度打っても寝つけなかった。
深夜、電話が鳴った。誰かが出掛けるような物音がしたので、玄関へ向かうと、身支度を済ませたリカルダに「すみません。起こしちゃって。急な仕事で。ゆっくりしていってくださいね。ミオも喜びますから」と捲し立てるように言われたが、彼女が出て行ったあと、やはり見送りに出ていたアレンに「早朝に帰る」と告げた。
アレンは今日、オダワラに行かないといけないらしい。いつもより早くに家を出るという。昨夜の着信はその連絡だったようだ。
朝の支度の邪魔はしたくないから、いつもこれぐらいの時間に歩いているからと理由を並べ立てて、ついにアレン宅を出た。ミオは起きたら残念がるかもしれない。
風が吹いて、街路樹の葉が擦れ合う音を立てる。ひらと舞う落ち葉が照らされて黄金色に輝いて見えた。歩道に敷き詰められた落ち葉を見る。イチョウか。昨日も歩いた道だが、気づかなかった。
セレスティーン・マロは、店に入ってきたハルオを見ると、目を張って驚いた。
「髪、切るの? 珍しい。どうしたの?」
「今度の日曜日に、ミオの、表彰式があってさ」
「ははははは。おじいちゃんしてんじゃん!」
そう冷やかすと、芝居がかったような身振り手振りで、一番奥のカットチェアにハルオを案内した。
セレスは、美容師だ。ヴァシレの店で働いていた。エリーの元同僚ということになる。
年齢は、ハルオやエリーの一回り下ぐらいだろう。店に入ったばかりのころは、何かと反発して、ヴァシレやエリー、他の従業員の手を焼かせることも多かったらしい。営業中にも大喧嘩することがあったから、客としてもハラハラさせられたものだ。
その後、何があったかは知らないが、一転、セレスは穏やかになった。喧嘩することはなくなった。そればかりか、エリーを姉のように慕うようにもなった。
ヴァシレが亡くなった一年後、セレスは独立し、この店を始めた。もともとは、ヴァシレがエリーのために用意していた店だったらしい。エリーはそれをセレスに譲った。ヴァシレのいたあの店を守りたかったのかもしれないし、かつてヴァシレにしてもらったように、セレスの生きる道を整えてやりたかったのかもしれない。真意はわからない。
美容院特有の薬剤の匂いにも慣れてきた。ジャキジャキとハサミの小気味いい音が左耳へ回り込んでくる。くすぐったさを感じながら、切られた髪がクロスに落ちる音を聞いていた。
「今日はリアンはいないのか?」
いつもなら、セレスはアシスタントのリアンに「ハルオは昔……」と余計な話を始めるが、今日はそのリアンの姿が見えない。
「今日はデートなんだって」
「へえ」
「あいつがいないから言うんだけどさ、この店を、継がせたいんだよね」
「えっ、辞める気なの?」
「あたしもそんなに若くないからね」
言われてみれば、そうか。
「なのにさ、若い女なんかにうつつを抜かして」
どこまで本気なのかわからない。
そのとき、電話が鳴った。セレスは「ちょっとごめん」と電話に走った。
鏡越しにその姿を目で追う。奥の棚が目に入った。大小さまざまな小物が飾られている。どれも色遣いが派手だが、嫌な感じはしない。うまく調和しているのだろう。セレスのあけっぴろげな性格が前衛的に表現されているような感じがする。
その一方で、セレスは時折、その表情に翳を落とすことがある。彼女もエリー同様、ヴァシレに拾われたのだから、窺い知れない過去を抱えていても不思議ではない。
電話は予約客からのようだ。何曜日の何時から、カットとカラー……と復唱している。
電話を切ったセレスに声を掛ける。
「一人だと大変だな」
「まあね。でも、うちは馴染みのお客が多いから。忙しくない日とか、気を遣ってくれる」
「なるほど」
そういう人柄だものな。
最後の仕上げを済ませたセレスは、細かい毛がついた手で三面鏡を広げて見せた。「あら、おじいちゃま。若返りましたねー」とからかう。
ハルオはいつものことだと相手にはせず、一呼吸置いてから、「次はもっと早くに来るよ」と言った。セレスはハルオを真っ直ぐに見つめると、ふっと笑い、畳んだ三面鏡でハルオの肩をつつきながら「若返ったんだよ」と破顔した。
店を出て、さて、帰るかと思ったとき、セレスが店から出てきて声を掛けてきた。
「イチョウ並木、見て帰りなよ。いまきれいだよ」
近くにイチョウ並木の名所がある。夜にはライトアップもされて、それ目当ての観光客も少なくないそうだ。
この店の開店祝いに駆けつけた帰り、エリーと二人で歩いたことがある。冷たい雨の降る夜だった。濡れた落ち葉で滑らないよう、いつもよりゆっくり歩いた。
セレスがエリーを姉のように慕うなら、エリーはセレスを妹のようにかわいがった。
エリーは、ライトに照らされたイチョウを見上げた。ハルオもつられて見上げた。雨粒がライトに照らされて、銀の糸が垂れるようだった。エリーが「あの子は……」と声を震わせたから、ハルオは驚いてエリーに視線を向けた。エリーは声を振り絞るように「あの子は、がんばってきたから……!」と言い終えると、唇を噛み締め、慌てて下を向き、傘で顔を隠した。しかし、すぐに傘を上げ、赤く腫らした目でハルオを見つめた。光るものが頬から首筋へと伝う。寄り添う傘を、雨は静かに打ち続けた。
「できるだけ、定期的に来るよ」
そう言って、イチョウ並木のほうへ歩みを進めた。セレスはその姿を見届けると、店の中へ戻って行った。