五 コチョウラン
リージョン・センターは、小高い丘の上にある。
行政の窓口や、市民が利用できる文化交流施設が集約された複合公共施設だ。ハルオがヨコスカに来たときにはすでにあったから、随分と古くからある施設だと思われる。ここの大ホールでミオの表彰式が行われる。
アレンが車で迎えに行こうかと誘ってくれたが、少し早めに行って周りを歩きたいからと断った。
まだ新婚のころ、エリーと来たことがある。誰だかのコンサートだった。エリーがよくその人の歌を鼻歌で奏でていたのを覚えている。そのときに、近くにある見晴らしのいい公園まで足を伸ばした。久し振りに訪れてみたくなった。
と、雨が落ちてきた。
傘は持っていない。晴れ予報だったし、さっきまでいい天気だった。やむなくセンターの中へ入る。ガラス窓越しに空模様を見ると、にわかに暗さを増し、雨脚も強まるばかりだ。残念だが、歩くのは諦めることにした。
さて、時間をどう潰すか。まだ一時間ぐらいはある。周りを見回すと、ロビー横のカフェが目に入った。コーヒー豆を煎ったような薫香が誘うように流れてくる。それも悪くない、が。
ハルオは、センター内を歩くことにした。それなりに広い。歩きながら身の処し方を考えよう。何も思いつかなかったら、そのときはカフェに行けばいい。
センターは、三階建てになっている。
一階には、主に行政の窓口や金融機関の支店がある。二階には、図書館の分館、カルチャースクールなどで利用されるレンタルスペースが並ぶ。三階に大小のホールがある。
ロビーの案内図を見ながら、ハルオは「とりあえず、二階へ行ってみるか。図書館もあるし」と独り言ちると、エスカレーターに乗った。三階まで吹き抜けでつながる中をゆったりと上っていく。
二階に着くと、子供たちの声が聞こえてきた。
がやがやと談笑しながら、二十人ぐらいで廊下を歩いている。その中に、ミオに似た子が――いや、本人だ――ミオがいた。普段は年相応のカジュアルな服装だが、今日はシックなパンツスーツだったので、それとは気づかなかった。引率の大人かと思ったぐらいだ。コミュニティの仲間と先に入ると言っていたから、おそらく、その集団なのだろう。
ミオはハルオに気づくと、胸元で静かに手を振った。ハルオも控えめに手を上げて応える。ミオたちは、控え室になっているのだろうか、レンタルスペースの一室へと入っていく。その姿を見届けながら、大きくなったものだという感慨に打たれた。その一方で、寂しさも感じた。
ハルオはその心の揺れを振り切るように、それとは逆の方向へ歩いた。
廊下の壁には、手芸教室、料理教室……といった、いかにもなポスターが貼り並べられている。その中にヨガ教室があった。エリーはどこの教室に通っていたか。そんなことを考えていると。
「失礼ですが、ヤーチさんではありませんか?」
不意に声を掛けられた。振り返るも面識はない。
「はい、そうですが?」
そう訝しげに答えた。
「やあ、よかった。ミオさんがさっき見かけたと言っておられたので」
「ミオが? では、同じコミュニティの?」
「いえいえ。エドウィン・ホイットフィールドと申します。教育文化庁の者です。この地域の担当官です」
ホイットフィールドは、そう名乗ると名刺を差し出した。「教育文化庁 カント―地域担当官」とある。なるほど、今日のプレゼンターということか。
「すみません。私は名刺を持たないので」
「結構ですよ。あなたのことは存じ上げております。あなたは英雄ですから」
そう言われて、ハルオは少しむっとした。ホイットフィールドは、ハルオの表情が曇ったのを見て、「皮肉ではありません」と力強く否定すると、頭を下げてこう言った。
「兄を……ダブリンで兄を助けていただきました」
ハルオは、こめかみに冷たいものが走るのを感じた。
あの日。
宇宙ステーションが軌道から外れ、ダブリンへの落下コースに入ったとの情報が入った。テロだった。近くのカーラ・キャンプに駐留していたハルオの部隊は、民間人の救出に向かった。そのような命令は出ていない。
「事情は、存じ上げているつもりです。無礼を承知で白状しますが、当時、あなたのことを調べさせていただきました」
重大な軍紀違反を犯した。待機命令を無視し、無断で部隊を動かした。挙句、兵士も機動兵器もすべて失った。本来なら、不名誉除隊は免れないケースだ。元軍人として生きていくことは難しくなる。
ところが、である。
「私の立場でこのようなことを申し上げるのは憚られますが、政府は腐っています」
政府は、テロが起きることも、宇宙ステーションがダブリンに落ちることも知っていた。当時、ダブリンには多くの政府高官が滞在していたのだが、彼らは、市民に一切の情報を流さないまま、早々とダブリンから脱出した。政府には、その不都合な真実を隠す必要があった。そこで。
「あなたを英雄に祭り立てることで、目を知らしたのです」
政府は、ハルオに目をつけた。軍紀違反を顧みず、決死の救出活動を行い、多くの犠牲を払うも、ただ一人、奇跡的な生還を果たした――という事実を、この上ない美談として世に流し、プロパガンダとして利用した。世論は熱狂した。
「それだけではない。あなたはもっと不本意な思いをされたことでしょう」
ハルオは特赦を受け、二階級特進で少佐に昇格した。政府にとっては、ハルオがその際に足を痛めたことも都合がよかった。療養を理由に後方へ回すことができる。栄誉ある転属だ。その際、軍はいくつかの選択肢を用意したが、いずれも戦略上の僻地だった。これらはすべて、沈黙を守れというメッセージである。
「しかし、われわれ兄弟にとっては、あなたは英雄なのです」
あのときに失った部下たちの顔が思い浮かんだ。聞かせてやりたい言葉だった。
「折り入って、あなたにお願いがあるのです」
* * *
エスカレーターからロビーを望むと、もう人でいっぱいだった。
思わぬ出会いに、思わぬ長話をしてしまった。一時間近くにわたって話し込んでしまったことになる。心が弾むような話ではない。エスカレーターで下りながら、どうしたものかと思案していると、心まで沈んでいくように感じられた。
アレンとリカルダが目に入った。向こうも気づいたようだ。
「アレン」
「やあ、父さん。歩けた?」
「いや。雨が降ってきて歩けなかった」
「雨? そういやあ、地面が濡れてたな」
そう言われて外に目をやると、もう降っていない。それどころか日が差している。どうやら通り雨だったようだ。もう少しロビーで待っていればよかったと後悔の念にかられた。
リカルダが「今日はわざわざありがとうございます」とハルオの顔を見るや、「お疲れのようですけど、大丈夫ですか?」と心配そうな面持ちで尋ねた。「大丈夫だ」とだけ答える。そんなにひどい顔をしていたのだろうか。
人の流れが大きくなった。バスが着いたのかもしれない。
それを見たリカルダの「混んじゃう前に行きますか?」という提案に乗り、大ホールのある三階へ向かった。
三階に着くと、「地球共栄功績表彰式」の垂れ幕が目に入った。文化、科学技術、スポーツ、地域貢献などの部門について、多文化共生への貢献が認められた子供が表彰される。今日はミオを含めて十余人が表彰されるらしい。
その垂れ幕の下には、白いコチョウランが飾られている。
「コチョウランは、着生植物でね」
いつかエリーが言っていた。「着生植物は、ほかの樹木の表面に根を張って、そこで育つの。それだけ聞くと、寄生しているみたいに思うじゃない? でも、違うんだな。寄生植物は宿主の養分を吸うんだけど、着生植物はそうじゃない。土台の樹とは別に、ちゃんと独立して、自分で養分を作って育つの。すごくない?」と。
そのときも感心したものだが、いま思い出しても感心してしまう。
表彰式が始まって二十分ぐらいが経とうか。
リカルダがトイレから戻ってきた。「緊張してきた」と言ってはトイレに立っている。これが三度目の帰還だ。
「あとどれぐらい?」
アレンが「次の次の……次、ぐらいじゃないかな」と答える。式次第を見る限りではそれぐらいだろう。そんなことを考えつつ、ハルオの表情は浮かばない。目は、プレゼンターのホイットフィールドに向く。
あのあと。
ホイットフィールドは、「講演をお願いできませんか?」と依頼してきた。戦争経験者による戦争講話の講師をしてほしいというのだ。これまでにも何度かそういう依頼はあったが、それらすべてが独り歩きした「奇跡の生還を果たした英雄の美談」を求めていた。堂々と話せることではない。すべて断ってきた。
しかし、ホイットフィールドが求めているのは、そういうものではない。「プロパガンダを広めたいのではありません。ヤーチさんの体験を踏まえた、思うところを自由に話してくれたらいいのです」と熱を込めて言うのである。
とは言え、向き合いたくない過去だ。向き合うのが怖い記憶でもある。断りたかったが、ホイットフィールドの熱意を否定することはできなかった。「気が変わったら」と、期待させるような曖昧な返事をしてしまった。どう転んでも苦しくなってしまう。
そんなことを逡巡しているうちに、ミオの番が来た。
表彰を受ける子供たちは、最前列に座っている。名を呼ばれ、ミオが立ち上がるのが見えた。姿勢は乱れない。ゆっくりを舞台へ向かう。階段の前で止まり、礼をとる。その所作を追ううち、胸の奥がひとしずく熱くなる。壇上に上がったミオは、客席へ向き直りもう一度頭を下げた。定位置へ進む足取りも落ち着いていた。
隣のほうですすり声が漏れた。アレンかリカルダか。この感慨を共有していることだろう。
ミオとホイットフィールドは正対し、お互いに礼を交わす。表彰状が手渡される。ミオは受け取ると、改めてホイットフィールドに一礼し、客席のほうを向いた。ゆっくりと客席を見回し――目が合った気がする――口角を控えめに上げると、目を閉じて、これまでより深く頭を下げた。拍手がミオを包み込む。
表彰式が終わった。
「はあ……」
人混みの中、半ば押し出されるようにホールから出たハルオは、重い息を吐いた。晴れやかな気分より憂鬱な気分のほうが優位に立っている。これからそれと向き合わなければならなくなった。
やるせなくなって救いを求めるように視線を流した。垂れ幕の下のコチョウランが目に留まった。空調のせいか人の流れのせいか、連なる花がかすかに揺れた。さっき見たときは白い花だと思ったが、ほのかにピンクがかっていたことに気づいた。その色味が、ハルオの心を淡く揺さぶった。