六 シェフレラ
十一月の下旬のことだ。
未明にアレンからメッセージが届いた。「ミオが救急搬送された。一時危険な状態だったけど、いまはもう大丈夫。一度家に戻る。ついでに父さんも拾うから一緒に病院に。支度して待ってて」というものだった。
支度はすぐに済ませた。詳しい事情はわからない。どれぐらい待てばいいのかもわからない。何か別のことをして気を紛らわそうともしたが、気もそぞろで何も手につかなかった。
ハルオは、着信はないかとフォンを照明に向けた――
帯電性微粒子、ECPが実用化されて以来、電波通信はほとんど使えなくなった。従来の情報端末は用をなさない。
そこで新たに開発されたのが、光波帯の指向性通信――フォトン通信だ。フォンと呼ばれる端末を、スポットと呼ばれる光通信ポート経由でネットワークに接続させる。光は直進性が強いため、スポットの照射外では通信できない。
いまでは、屋内外の照明設備にスポット機能が備わっているのが普通だ。フォンを照明に向けることで通信が可能になる。
――しかし、新たな着信はない。アレンは「拾いに来る」とよこしたから、おそらく車で来るのだろう。フォトン通信の性質上、運転中のアレンから着信が来ることはない。それは承知しているのだが、それでも、もしかしたらと、着信の確認をしてしまう。
最後の着信時刻を見る。まだ十五分しか経っていない。もう何時間もこうしている感じがする。テーブルの上で両手を組み、祈るように待ち続けた。
車の音がした。窓の外に目を向けると、ヘッドライトの明かりが流れたのが見えた。うちの前だ。きっとアレンだ。
厚めの上着を羽織り、戸締りをして外へ出る。ちょうどアレンが車を降りたところだった。ハルオを見つけて「とりあえず乗って」と右手の親指で助手席を指した。後部座席にはリカルダが乗っていた。見るからに顔色がすぐれない。目が合うと頭だけ軽く下げてくれたが、いつもの快活な声は聞かれない。ハルオは助手席に、アレンは運転席へと乗り込んだ。
「ミオは大丈夫だと言っていたが?」
シートベルトを締めながらアレンに尋ねた。
「うん。夜中に発作が出てね」
静かに発車させながら、アレンが続ける。
「いつもの発作だと思って薬を飲ませたんだけど、普段ならすぐに治まるんだけど……ひどくてね。リカルダが病院に、勤務している病院に電話して当直の先生に相談したら、救急車を呼んだほうがいいって……」
長めの間が空く。アレンも自身を落ち着けつつ、整理しているのだろう。
「で、救急車で病院に運ばれて。救急車にはリカルダが乗って、知識もあるし、僕より役に立つと思って。僕は車でついていって……」
車が大通りを右折する。思っていた方向と逆だ。どこの病院へ向かっているのだろう。訝しげにアレンの顔を見る。その視線に気づいたアレンは、しかし、話の先を促されたと勘違いしたようだ。
「なんか、よくわからないんだけど……。いつもの喘息ではないみたいで……」
アレンはルームミラー越しにリカルダをちらちらと見る。説明の補足をしてもらいたいようだが、リカルダは何も言葉を発さない。ハルオは頭だけ振り返り、リカルダの様子を見た。うつむいて大きめのバッグを抱えている。着替え、だろうか。
仕方がなく、アレンが続ける。
「胸が苦しいみたいなんだけど、喘息特有のぜえぜえするとか、咳が出るとか、そういうのじゃなくて。典型的な発作じゃないし、悪化も速くて……」
アレンはコンビニを見つけると、「ちょっと寄らせて」と車を停めて一人で店内に入っていく。こんなときに、とも思ったが、すぐにペットボトルを三本抱えて戻ってきた。「きっと大丈夫だよ」とリカルダに一本を渡す。「うん」とか細い返事が聞こえた。今度はハルオに「温かいのがカフェオレしかなくてさ。好きじゃないと思うけど」と差し出す。ハルオは「ああ」とだけ言って受け取った。寒さからか緊張からか、手先に震えを感じていたが、ペットボトルの温かさが体に溶け込んでいくような安心感を覚えた。
それはリカルダも同じだったようで、「神経系の、症状があるんです」と口を開いた。少し落ち着きを取り戻せたようだ。
「呼吸が浅くて、筋肉の反応も弱かったんです。気管支の問題というより、息を吸う力そのものが落ちている感じで。神経から筋肉への伝達がうまくいっていないと、そういう症状が出ることがあるんです」
アレンは心配そうに、説明を続ける妻をルームミラー越しに見守る。
「子供の場合、まだ身体ができ上がる途中で……悪化のスピードが予測できなくて……」と、ところどころ声が震える。看護師としての経験からも深刻な状態だったのだろう。
こういうことらしい。
ミオは、救急病院に搬送され、一度は容態が安定した。しかし、神経系の症状が見られるなど、通常の喘息の発作とは考えられないことから、専門的な設備が整う病院へ転院することとなった。ミオの移送の間に、アレンとリカルダは着替えを取りに戻ることになった、と。
もう一時間ほど走っている。
あたりはすっかり明るくなった。通勤の車も増え、渋滞にかかることもしばしばだ。そうしているうちに、大きく広がる森が見えてきた。その森から、コンクリートとガラスに覆われた無機質な建物が頭を出している。ミオの転院先である、コーホク高度先端総合医療センターだ。
リカルダ曰く「この地域の先進医療を支える病院」らしい。一般外来は受けつけておらず、提携する医療機関から紹介された、難治性の症例や特殊な病因を持つ患者のみを受け入れているという。ハルオは、難治性という言葉の重みに戦慄した。
車を駐車場に停め、建物まで歩く。周囲は木々に囲まれている。手入れは行き届いているようだが、奥深い森の仄暗さと森閑とした静けさに、ハルオは息を飲んだ。そそやと複風に森の湿った匂いを感じた。装飾のないアプローチは、軍事施設を思わせる冷たさがあった。鳥の鳴き声は聞こえない。あるいは、鳴いていたが、耳に入らなかったのかもしれない。三人の靴音だけが静かに耳に響いた。
エントランスに着いた。
中へ入ると、柔らかな光に満ちたロビーが広がる。天井の高い吹き抜けに開放感を覚えた。長く伸びる受付カウンターでは、青い制服を着たスタッフと患者やその家族と思しき人々が言葉を交わしている。そのざわめきが、ハルオのこわばった体をほぐしていくように思えた。
さて、どうすればいいのだろうと三人できょろきょろしていると、案内係のスタッフが声を掛けてくれて、受付カウンターに案内された。
三人は受付を済ませると、ミオのいる小児病棟へ向かった。
連絡通路の入り口の端末にカードキーをかざす。電子音が鳴り、扉が開く。ロビーまでは自由に出入りできるが、それより先は、患者ごとに入室権限が分かれているらしい。三人は、ミオに関する病棟や部屋にしか入れない。
ハルオは歩きながら、カードキーを改めて見た。
『小児病棟 ミオ・ヤーチ』
機械的に印字された文字が並ぶ。いよいよ現実味が帯びてくる。信じたくない現実と向き合うときはいつもこうだ。いや、この歳になってもこうなのかと奥歯を噛み締めた。
小児病棟の扉が開いた。別世界に迷い込んだかと思った。
殺風景な廊下から一転、壁には、絵本を思わせるメルヘンチックな絵が描かれ、子供が作ったであろう装飾が貼られている。目に賑やかだ。
「……まるでテーマパークだな」
アレンが呆れたようにつぶやく。
「ああ」
ハルオも同じ感想を抱いた。一歩足を踏み入れると、床がわずかに柔らかい。絨毯とまでは言わないまでも、クッション性がある素材が使われているのだろう。靴音はもう響かない。
驚く二人を見てリカルダが「小児病棟はどこもこんな感じです。子供の患者の気分を和らげているんです」と言い添える。なるほど、そういうものかと感心した。
奥から子供たちの楽しげな声が響いてくる。ロビーまで来ると、色とりどりの遊具が設置されたプレイスペースがあり、何人かの子供たちが遊んでいた。その様子を、親らしい大人がソファに腰を掛けて見守っている。もっと深刻で静まり返った場所を想像していたから、拍子抜けしたような、ほっとしたような気持ちになった。
ロビーの案内係は、三人のカードを端末に通してチェックインを済ませると、「では、あちらの奥、六番の診察室へどうぞ」と告げた。三人は案内板を頼りに診察室へ向かった。
そこは診察室というより、さながらカフェのようだった。
ウッドフレームのシンプルなソファが二脚、やはり木製のローテーブルを挟んで向かい合う。書棚の類いはない。その代わりではないが、さまざまな観葉植物の小さな鉢が飾られたプラントスタンドが並ぶ。壁には、子供の描いた絵がいくつも掛けられている。
白衣を着た人物が「ヤーチさんですね。さあ、どうぞ、お掛けください」と気さくに言う。三人は言われるまま、ソファに腰を下ろした。
「ミオさんの担当医、エリオット・カールです」
カール医師はそう自己紹介すると、ミオのいまの状態について切り出した。
「ミオさんは病室で休まれています。大丈夫、心配はいりません。聞けば、深夜から慌ただしくされたようですから、お疲れになったのでしょう。ぐっすり眠られています。看護師も近くに控えておりますから、大丈夫です」
医者にそうにこやかに言われると安堵感が増す。
「いつもの発作ではありませんでした。神経系に異常が見られるような……」
リカルダがカール医師の所見を求めた。
カール医師は何度か頷いてから。
「はい。呼吸筋の機能低下や末梢神経に障害が見られます。少なくとも喘息の発作ではありません」
「では……?」
リカルダが先を促す。
「まだ詳しい検査が残っています。その結果を見てみないと、はっきりしたことは申し上げられないのですが」
その含みのある言いように、ハルオは薄ら寒さを覚えた。リカルダはこの病院を難治性の症状のある患者だけを受け入れる病院だと言っていた。当然、ミオもそうなのだろう。来るべきものが来る。両の手を固く握り締めた。
「簡易な検査をした際、検査機器に異常が見られました」
「検査機器に異常? どういう……ことでしょうか?」
すかさずアレンが訊く。
「モニターの波形が一瞬飛んだり、解析装置がエラーを返したりします。ただし、機器そのものの呼称ではありません。ミオさんの検査に使うと異常が起きるんです。電子的な異常、とでも申しましょうか」
アレンとリカルダは、カール医師の説明が要領を得ないように感じられて、困惑しているようだ。質問したいが適切な糸口が見当たらないのだろう。
しかし、ハルオには思い当たる節があった。かつて軍にいたとき、似たような報告事例を見たことがある。無論、軍によって握りつぶされたのだが。
「帯電性微粒子ですか?」
アレンとリカルダが驚いてハルオを見る。彼らにはまだ話がつながって見えないようだ。
「ええ。しかし、まだ十分な症例数や検証が蓄積されているわけではありません。また、公的見解として確定している段階でもありません。ただ、現状において、整合性のある一つの仮説、検討に値する仮説である、としか言えません」
帯電性微粒子誘発性神経筋障害、通称EPND。
帯電性微粒子は、電波などを封じ込める性質のある微粒子だ。戦争下では、レーダーや無線通信を無効化する目的で撒布される。
三十年ほど前、それが人体に影響を及ぼしたと思われる事例が出た。やはり、検査機器に異常が見られたという。検査機器は繊細だ。体内に残留する帯電性微粒子をキャッチしてしまうのだろう。
政府や軍は、これを認めていない。
これまでも症例は出ているが、そのほとんどは、戦争地域に紛れ込んだ不法移民者においてだ。地球生まれの人々にとって、彼らもそんな症例も「存在しないもの」に等しい。そうして、握りつぶされてきた。
では、ミオの場合はどうか。
このニホンでは、長らく戦争は起きていない。テロ対策として撒布されることはあるものの、ほかの地域と比べてもその頻度は多いとは思えない。だとすれば、食物連鎖による生物濃縮によるものか、たまたま運が悪かったか、そういったところだろう。
カール医師の説明も、およそそんなところだった。
アレンとリカルダは、言葉を失って何も話せない。時折、互いに目線を合わせることしかできないでいる。あるいは、思い浮かぶ言葉が、使うに適切でないと、飲み込んでいるのかもしれない。
一方のハルオは、後ろめたさに溺れそうな心持ちだった。
前線にいたとき、幾度となく撒布の指示を出したことがある。それに、EPNDのことも知っていた。当時、ハルオは佐官だった。佐官だったからこそ、知る立場にいた。どちらかと言えば、握りつぶした側に入る。
守るべきものを害すことに、また、その事実の隠蔽に加担したようなものではないか。英雄が聞いて呆れる。固く握られた拳には、力が入っているのか入っていないのか、自分でもよくわからないほど、感覚が失われていた。
「しかし、そう悲観することはありません」
三人の心の内を知ってか、カール医師は声のトーンを上げて続けた。
「ショックはショックでしょう。多少、不便な生活を強いられる可能性がないわけでもありませんが、かといって、最悪の事態を招くようなことでもありません。症例もまだ少ないものの、確実に増えてはいます」
カール医師の身振り手振りが大きくなる。我々を鼓舞するかのように立ち上がってさらに続けた。
「時間はかかるかもしれませんが、政府や軍も、いつかは認めざるを得なくなります。治療法だって出てくるかもしれません。いま。みなさんが前を向かないでどうしますか」
三人はほとんど同時に、カール医師を見上げた。
「いいですか。みなさんは、ミオさんを支える立場にあります。前向きに支えるのか、後ろ向きに支えるのか、みなさんはどちらを選びますか?」
カール医師に進むべき道を照らされて、頬が火照っていくのを感じた。
「私は、看護師をしています。ミオを、娘の未来を支えたい……!」
いち早く、リカルダが己の決意を明らかにした。
「ほお。看護師さんでしたか。では、あなたもいろんな患者さんと向き合ってこられたことでしょう。どんな病気であれ、それと闘うには、ご家族をはじめ、近しい方々の力は強大です」
「はい……。たくさん、見てきました……」
アレンがそっと、声を詰まらせた妻の手を握る。アレンの目にも決意の色が見て取れる。アレンが「ミオのために、できることを、やるしかありません」と力強く言うと、リカルダは泣き崩れるように、いや、支え合うように夫にもたれかかった。
ハルオは、宇宙ステーションが落下してくると知った、あの日のことを思い出していた。救出に向かうと決めた、あのときの感覚を。
その後、しばらくカール医師と今後に向けての話をした。
ミオの発作は、普通の病院では対処が難しいそうで、しばらくはこの病院に入院することになる。まだ試験段階だが、発作が出にくくする方法があるらしい。完全に治せるわけではないものの、日常生活に戻れる可能性があるという。いまは、それを目指すしかない。
ミオの病室に来た。
隔離されていて、そばへ行くことはできない。ガラス越しにミオの様子を見ると、吸入マスクをつけたまま、静かに眠っている。穏やかな寝顔だ。時折、もうこのまま動かないんじゃないかという恐怖に見舞われる。
早くミオの元気な声が聞きたい。笑顔が見たい。
そう思っていると、一瞬、ミオが動いたような気がした。が、気のせいだったようだ。ガラスに映ったシェフレラの葉が揺らいだだけだった。
シェフレラは、どんな環境でも元気に育ち、美しい葉を絶やさないらしい。だから、病院などでよおく飾られるのだと、エリーが言っていた。きっとミオもそうなるよ――エリーなら、力強く、そう言う気がする。