七 ザッソウ

フォンが鳴る。電話の着信だ。

画面に「エドウィン・ホイットフィールド」と表示されている。講演の依頼を受けたとき、連絡先を交換した。あれ以降、たびたび連絡をよこしてくる。

依頼を断り切れなかったせいだろうか。依頼を受けるまで掛かってくるのだろうか。そう思うと、いつも気が重くなるのだが――

この日のハルオは躊躇なく、電話に出た。

『どうも、ヤーチさん。お時間よろしいですか?』

相変わらず朗々とした声だ。ハルオはおかしくなってふっと笑った。

一か月ぶりのリージョン・センターだ。

あの半月後には、ミオの病気発覚があった。まだそれほど日は経っていないが、あの表彰式の日が随分と遠い昔のように思われる。

『ヤーチさんにお見せしたいものがあるんです。近々、あのリージョン・センターへ行く用があります。そのときにお会いできませんか?』

ハルオは電話口のホイットフィールドの声に、弾んだ印象を受けた。どことなく嬉しそうに感じたのだ。自分のことを英雄と言ってくれる彼の、そんな気分に水を差したくないと思って快諾した。それに、雨に阻まれて行けなかったあの公園に行くチャンスでもある。

ロビーに入ると、カフェからいい香りが流れてくる。こないだは寄れなかったから、今日はあとで寄ってみるかと思いながら、エスカレーターに乗る。

二階には、レンタルスペースが並ぶ。指定された部屋を探していると。

「ヤーチさん」

部屋から顔を出したホイットフィールドに呼び止められた。

「どうも。ご無沙汰しております」

「いえいえ。こちらこそ、ご足労いただきありがとうございます」

簡単な挨拶を済ませて部屋へ入った。

部屋には、作業台、シンク、コンロが並ぶ。てっきり会議室に呼ばれたと思っていたが、料理教室で使われる部屋のようだ。ハルオの驚いた表情を見て、「ここのほうがかえって安全なんです」とホイットフィールドが笑いながら言う。

「安全、ですか?」

「この建物には、私のような者が使える応接室があるのですが、何が仕掛けられているかわかりません。カメラとかマイクとか」

そういう立場の人でもあるのか。

「なるほど。合点がいきました」

「私みたいな小物を監視したって仕方がないと思うのですが」

ホイットフィールドはそう言うと、何度も首をかしげて見せた。

「お孫さん、ミオさんはお元気ですか?」

和やかな雰囲気が一転、ハルオの顔がピリつく。

「実は……」

「そうでしたか……。これは、失礼なことを申し上げました」

ホイットフィールドは神妙な面持ちで頭を下げる。

「いえいえ。ご存じなかったのですから」

「EPND、私のほうでも何例か報告を受けたことがあります」

二人は重い息をつき、視線を落とした。

すぐにホイットフィールドが慌てて「しかし、あなたのせいじゃない」とハルオに向き直した。首を大きく横に振りながらもう一度、「あなたのせいではありません」と言い切った。

ハルオは、ホイットフィールドの真っ直ぐな目を見た。この人は、自分を助けようとしてくれている――そう直感した。そして、「ありがとうございます」と口にしたとき、自分の表情が、気持ちが、穏やかになっていた……気がした。

「それで、私に見せたいものとは?」

「ああ、そうでした。実家から送ってもらったんですよ」

そう言って、作業台に置かれた鞄へと足を運ぶ。

「以前、あなたのことを調べたと、申し上げたのを覚えておられますか?」

「覚えています。私の処遇についてお詳しかった」

「ええ。実は、あなたに助けられた兄と、メドウェイに行ったことがあるんですよ」

メドウェイ――ハルオがかつて住んでいた街だ。

「あなたの家を訪ねたんです。兄がどうしてもあなたにお礼が言いたいと。ダブリンのあと、四か月ぐらいしたころです。でも、もうあなたはいなかった」

ハルオは、政府に利用されるだけされて、そのころにはニホンへ移っていた。

「私はそのひと月ほど前に、ニホンへ移りました」

「そうでした。あなたの転属先についても調べたのですが、どこにもデータがなかったのです。あれほど英雄と囃し立てていたのに。それで、ああ、そういうことかと思い至りました」

ホイットフィールドは濁してくれたが、政府と軍にとって不都合な存在であるハルオは、戦略上の僻地で幽閉される形になった。外部の者と余計な接触をさせないよう、表向きのデータから消し去ったのだろう。

「それで、見せたいものというのはこれです」

ホイットフィールドは、一枚の写真を差し出した。手に取って見ると、若い男性が二人写っていた。一人は車椅子に乗っている。背後に写っているのは、ハルオがかつて、両親と祖父と、四人で暮らしていた家だ。

「車椅子が兄です。兄は病魔に侵されていました。もう長くない、そう告知も受けていました」

「そうでしたか……」

確かあのとき、ベッドから動けない青年を救助した覚えがある。一人でも多くの民間人を助けるためには、手間取りそうな彼を捨て置くという選択肢も考えられた。しかし、ハルオ自身も、その部下たちも、そうはしなかった。時間は要したが、救助に成功した。それがホイットフィールドの兄だったのかどうかはわからない。

「兄には本当に、英雄が現れたように……思われたそうです。だから、唯一生き残ったあなたに会って、直接お礼が言いたいと……」

ホイットフィールドの声が震える。

「兄のその夢は叶わなかった。でも、その兄の夢を引き継ぎたいと思っていた私の夢は叶った。表彰者リストに『ヤーチ』という名前を見つけたとき、驚きました。まさかと思った。それで、表彰式の日、ミオさんに話を聞けば、おじい様だと、さっき部屋の外で見かけたと」

この外の廊下で呼び掛けられたときのことが思い出される。

ホイットフィールド曰く、ミオは、ハルオを英雄だと言っていたらしい。ハルオ自身はそんな話はしたことがない。おそらく、アレンかリカルダがミオに話したのだろう。そして、アレンとリカルダにそんな話をしたのは、エリーだ。

ハルオはふと、エリーにとって、自分はどんな存在だったのだろうと思った。

「長々と自分の話をしてしまって申し訳ありません」

「いえ。あなたにとって、大切な思い出であったことが伝わりました。あなたが私のことを『英雄』だとおっしゃったことも、くすぐったい感じは拭いきれませんが、理解はしました」

「そう言っていただけると……。ありがとうございます」

ホイットフィールドが、ハルオを見送ろうと、入り口のドアノブに手を掛けようとしたとき――

「そうだ。お兄様の名前は何というのです?」

ハルオから唐突に兄の名前を訊かれ、ホイットフィールドは少し意外そうに目を瞬かせた。しかし、落ち着いた声で「アーサーです」と答えた。

「いいお名前ですね」

ホイットフィールドは照れ臭そうに「何をやってもダメな、不器用な兄でしたがね。でも、子供のころ、いじめられそうになったとき、助けてくれたんですよ。喧嘩が強いわけでもないのに……」と、口を真一文字に結んでから大きく息を吸うと、ハルオの目を見て「私にとっては、兄もまた、英雄でした」と誇らしげに続けた。

ハルオは、ホイットフィールドの目が潤むのを見て、静かに頷いた。そして、そっと息を整て、「それじゃあ、また。エドウィン」とだけ言い残して料理部屋を出た。

「さてと」

リージョン・センターを出たハルオは、もう一つの目的地である公園へと向かった。腫物が取れたように、その足取りは軽く感じられた。

風が冷たい。途中、温かい飲みものでも買ってくればよかったと思った。せっかくカフェもあったのに。買いに戻ろうかとも思ったが、どうせまたバスに乗るために戻るのだからそのときでいいかと、再び歩みを進めた。

この公園には、さまざまな樹木が植えられている。どの季節でも何かしらの花を楽しめるようにしているらしい。昔、エリーと来たときは、バラが終わってアジサイが咲き始めるころだった。新緑が青々としていたのを覚えている。

芝生にはシロツメクサがいくつも群を作っていて、二人で四つ葉を探した。飽きると、遊歩道を歩いた。エリーがあれは何、これは何、春には何が咲いて、夏には……といった具合に説明してくれた。ハルオが「言われてみれば、植物はみんな違うのだな」と素直に感心すると、エリーは「そりゃそうよ」と口を尖らせた。しかし、すぐに口をきゅっと結び、にこっと笑顔を作ると、目を伏せて囁くように――

「みんな違うんだよ。同じように見えても。同じであっても」

確かに、そう言った。

ハルオはベンチに腰を掛けると、名前のわからない樹木をぼんやりと眺めながら、そのときのエリーの言葉を思い出していた。あれは、どういう意味だったのだろう……。

そのまま視線を上げて、空を仰いだ。

たまに鳥のさえずりが聞こえたり、車道からのロードノイズが耳に入ることもあるが、静かだった。時間が止まっているように感じられた。

思いがけず、鼻歌が出た。

エリーがよく歌っていた曲だ。最後に聞いたのはもう十年以上前なのに、よくも覚えていたものだなと、我ながら意外だった。あの日のコンサートでも聴いたはずだが、どんな歌だったのだろう。

バッグからフォンを取り出して、スポットに向け、その曲をダウンロードする。「ただ一つの港」という曲らしい。再生ボタンを押すと、数十年前の歌声がふわりと耳に蘇った。

帰るあてもなく
波間をただ漂う小舟のように
凍えた私を そっと呼びとめたのは

あなたの灯り
私の影を 静かに抱きしめて
消えかけた心に 火をともすように
たどり着いた港は ここにある

涙が溢れ、頬を伝う。

目をつむるとさらに零れた。

――エリーにとって、自分はどんな存在だったのだろう

愚問だった。

エリーはいつも、そう歌っていたのに。

ハルオにとって、エリーは灯りだった。

エリーにとっても、ハルオは灯りだった。

お互いに影を抱えていた。

お互いに灯りとなって影を薄めた。

愛し合っていたのだと思った。

ハンカチで目を覆う。フォンをしまい、エリーの跡を探すように周囲を見回す。木々の葉が、ザッソウが、風に揺れていた。

リージョン・センターに戻ってきた。

カフェに寄るつもりだったが、夕方になってしまい、混んでしまった。目が腫れているかもしれないと人目を避けるように二階へと上がった。確か、自動販売機があったはずだ。

缶コーヒーを買って、廊下沿いのベンチソファに腰を下ろす。目の前には、ヨガ教室のポスターが貼られていた。

「呼吸が大切なのよ」

大きく深呼吸をする。まだ胸には、熱いものがこみ上げた、その感触が残っている。それを鎮めるためにもう一度、大きく深呼吸した。

――ヨガはサンスクリット語で「つながり」を意味します

その文字を見つけてぎょっとした。

――心と体、自分自身とつながることはもちろん

――他者ともつながることです

そう書いてあった。

「ハルオには、きっと必要なことだと思う」

コーヒーを持つ手が震えた。